「わかりやすい」ってなんだ! 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

Image by Gerd Altmann from Pixabay

「わかりやすい」という言葉が、非常に脳に焼きついています。教師の時代、どれほど「もっとわかりやすい授業を!」と言われたか。どれほど私の授業は「わかりにくい」と言われてきたか。どれだけ、苦労してきたか。どれほど(無駄な)努力をしてきたことか。

なぜ、私の授業はそんなにわかりにくかったのか、今なら理解できます。つまり「わかりやすい」というのは主観であり、誰にとってわかりやすいのか、ということになるのです。クラス40人中、35人くらいにとってわかりやすかったら大成功。残り5人は、わかっていないでしょうけど、周囲のみんなはわかってるみたいだし、わからないのは自分の責任だと思わざるを得ない。しかし、40人中、2人、わかるけれど、38人がわからない授業は、崩壊します。そして、崩壊したら、その、わかっている2人まで、わからなくなります。

私は、自分にとって「わかりやすい」授業をしていたのです。それは、論理的に穴のない授業。私は、空気が読めないし、論理的なものなら頭に入るので、教科書みたいな授業をしていたのです。実際、よく「教科書の丸写しすぎる」という批判もいただいておりました。それで、なるべく教科書とは値を変えようとしてみたり、でもそのころには、私のやることなすこと批判されるようになっているので、値を変えたことで批判されたり、もうむちゃくちゃでしたが、とにかく、「わかりやすい」ということは「わかる授業」とは違う。「わかる授業」は、論理的に穴がなく、順序だてて聞けば、必ずわかる授業。でも、そういうものって、往々にしてわかりにくいんですよね。私自身でさえ、そうです。取扱説明書とか、苦手です。でも、取扱説明書でも、きちんと読んでいるのに理解できないものがあります。

発達障害にかんする勉強会で、「発達障害について、わかりやすいDVDなどはありませんか? なるべく理論的でないもので、雰囲気で理解できるものでお願いします」というリクエストがありました。なんということもなく講師はおすすめを挙げていましたが、これこそ空気の読める人でないと理解できないもので、「理論的でなく」「雰囲気で理解できるもの」というあたりが、そうです。

だいたい、「わかりやすい教師」というのは、「わかった気にさせるのがうまい教師」であることが少なくありません。「なるほどね!」と思わせて、じつはわかってなくてもいいのです。それで授業が崩壊しないなら。いろいろな人の授業も見学しました。でも、いい授業を見学すると自分の授業もわかりやすくなるかと言ったらそうでないこともわかっていました。明石家さんまの番組をたくさん見たらトークがうまくなるとか、パユのCDをたくさん聴いたらフルートがうまくなるわけでもないのと一緒。それから、各種教師の研修会も行きましたが、「いかにしてデキる教師になるか」というものばかりで、「ダメな教師が、せめてマシになる研修会」というのはありませんでした。

事務の仕事も、そもそものところがわからないと、わかりません。「普通、考えたらわかるだろ!」って言われるんですけど、私にはわからない。開き直っているわけじゃありません。ほんとうに困っているのです。一度、先輩の口から「どこから説明したらよいのか……」という言葉がもれたことがあります。そのとおり、物事をゼロから積み重ねるように説明することは、とても難しいことなのです。私はそれができるから、プログラミング(=コンピュータという空気の読めないものにゼロから教えること)のセンスはある。プログラミングのセンスはあるが、機械音痴でパソコン音痴なので、プログラマーにはなれません。

とにかく「わかりやすい」という言葉は非常に難しい言葉です。なにをもってわかりやすいというのか。誰にとってわかりやすいというのか。異なる2点を通る直線は1本存在し、しかも1本だけ存在しますが、同一直線上にない3点を通る平面が1枚存在し、しかも1枚しか存在しないのは、どう説明したらよいのでしょうか。一角形、二角形は存在しないように、三面体も存在しないのだが、どうやって説明したらよいのでしょうか。どれは「当たり前」で済む話なのでしょうか。40人中、35人がわかればよいのか、わかった気になればよいのか。

「わかりやすい」ってなんだ!

愚痴っぽくてごめんなさい…汗 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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