主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の142篇です。
◆詩篇142編 表題
ダビデのマスキール。ダビデが洞窟にいたときに。祈り。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
詩篇142篇は、ダビデが王様になる前に、敵に追われて洞窟にまで追い込まれたときに詠んだ歌です。この「マスキール」という語の意味は、実はいまだにちゃんとはわかっていないのだそうです。英語の聖書では訳によって「masukil」だったり「maschil」だったりします。その意味も「指揮」だとか「黙想」だとか、さまざまな解釈があります。よくわかっていないんです。
ただ、とにかく、その語の意味するものがなんであれ、ダビデは敵に追い詰められた洞窟の中でさえ、神様に祈ったんです。敵に追い詰められた洞窟の中という、誰がどう見てもみじめで、絶対的にピンチな状況で、あえてさらに神様に「私は今、弱く、みじめで、そしてこの命さえ今にも失いそうです」と祈ったんです。
ダビデは自分の生涯の最大のピンチの時に、祈ったんです。
僕たちは、僕は、人生最大のピンチの時に、こんな風に祈れるでしょうか。たとえば経済的に大ピンチで、明日を生きるお金もないまでに追い詰められた時に、僕たちは、僕は、本当に神に祈るでしょうか。たとえばひどい病気になって、明日をも知れぬ命になったときに、僕たちは、僕は、本当に神に祈るでしょうか。
「いやいや、そんなもはや神頼みするしかない状況になったら祈るだろう」って思う人もいるかもしれません。そんな人は多いのかもしれません。でも僕は、僕が本当にそんな状況になった時に、神様に祈るかどうか、確信がないんです。経済的なピンチなら、神様ではなく、お金を貸してくれる人に懇願するかもしれません。健康的なピンチなら、神様ではなく、お医者さんに懇願するかもしれません。
ダビデだって、敵を蹴散らす援軍とか、味方とか、もっと「現実的な」何かに懇願したっておかしくなかったわけです。でもダビデはそんな「現実的な」何かではなく、神に祈りました。
僕は、自分が本当にピンチになった時、神様ではなく、もっと「現実的な」何かに懇願してしまうのではないかと、普段は「神様に信頼しています」とか言いながら、本当にピンチになったら神様以外の「何か」に懇願してしまうのではないかと、自分の信仰をちょっと疑ってみたりするんです。
お祈りします。神様、本当にピンチに陥った時、ダビデのように、まず何よりもあなたに信頼し、あなたに助けを求めることができますように、僕を、僕たちを整えてください。そしてそのときに、あなたが本当に必要な助けを与えてくださることを、心から信じることができますように、僕を、僕たちを、導いてください。御手に委ねて、私たちの主、イエス・キリストの御名により、お祈りいたします。アーメン。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。