メンタリストのDaiGoさんが 生活保護を受けている方やホームレスの方の命の尊厳を軽視する発言をしたことが問題になっています。「こんな考え方の人がいるのか、しかもそれを公の場で発言してしまう人がいるのか、さらにそれが『メンタリスト』と呼ばれる、人の心の専門家なのか」といろいろ驚かされました。
日本国憲法では内心の自由が保障されていますから、DaiGoさんがあのような考えを持つこと自体は、実は誰も否定できません。どんなに極悪非道な思想であっても、それを内心で抱くこと自体は、憲法で定められた権利なんです。しかし、それを公に発言するだとか、実際に行動に移すということになれば、それはもはや憲法が保障する範囲ではありません。あの発言に対して多くの批判の声が上がるのも当然のことですし、それで社会的な立場が失われることも避けられません。「それを言うなら憲法には言論の自由もあるじゃないか」という反論もありそうですが、言論の自由というのは「何を言っても法的に罰せられることはない」というだけで、「発言に対する責任を持たなくて良い」ということではありません。内心の自由はそれが内心にとどまっている限りは責任を求められることはありませんし、そもそも求めようがありませんが、それを公に発表してしまえば責任は免れないということです。
さてところで、そのDaiGoさんが否定、もしくは軽視した生活保護、少し厳密に言うならばこれも憲法で保障されている生存権、これについては実は旧約聖書にも定めがあります。
誰もが一度は見たことがあるであろう、ミレーの『落穂拾い』という絵画がありますが、これは旧約聖書のルツ記がモデルになっているとされています。ルツ記の主人公であるルツは生活に困って、農民たちが収穫した麦を運ぶ時に落ちる落穂を拾って命をつなぎました。実はこの「落穂拾い」という行為は当時の社会で生活に困った人の正当な権利として認められていた行為でした。この権利を保障するため、収穫物を運ぶ人は自分が落とした穂を自分で拾うことが禁止されていたほどです。「落ちた穂は生活に困った人のためのもの」と決まっていたんです。ルツ記に登場するボアズという人はさらに、「ルツのためにわざとたくさん穂を落とすように」と部下に命じたりしています。
この根拠となるのはレビ記の19章9〜10節です。
あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽してはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。
旧約聖書レビ記19章9〜10節
このように、聖書は、すなわち神様は、明確に貧しい人の生存権を認めており、また社会に対してはそれを保護する義務を課し、その具体的方法まで規定しているんです。「聖書の時代には基本的人権もなかったから、聖書は現代の価値観にはそぐわない」なんて意見もちらほら聞かれますが、しっかりと読み込めば聖書にはこのように現代の基本的人権に通じることや、基本的人権そのものが明記されていることがわかります。
「貧しい人を生かす」というのは聖書も定めている、社会の義務です。ですから貧しい人の生存権を軽視するということは、社会の否定につながるんです。「動物の世界は弱肉強食であるのだから人間社会も弱肉強食で当たり前だ」という主張もありますが、それは人間と他の動物を同列に置く、進化論的な前提に立った主張です。聖書には、神様が人間を他とは違う特別な存在としてつくったと書いてあります。人間はひとりひとりが神様の最高の作品であり、神様はそれを愛していると書いてあります。ですからたとえ動物が弱肉強食の世界で生きているとしても、人間がそうある必要はないんです。だいたいそもそも、動物の世界にだって弱い個体に対する生存のセーフティネットってある程度はありますからね。ヌーの群れだって、足の遅い個体に合わせて移動速度を調整したりしていますからね。
ですから生活保護を受けている方も、堂々としていて良いんです。あなたが生きることは神様の希望なんですから。あなたの生存権は神様が保証しているのですから。
聖書のメッセージがDaiGoさんに伝わることを祈ります。そして彼の発言で傷ついてしまった人の心に癒しが与えられますように。