人災による事故死をどう理解? 勝本正實 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.明らかに人災だと判明した事故の犠牲者について、どのように理解すればよいでしょう?(30代・男性)

私たちは普段の生活の中で、何気なく意味や理由を「なぜ?」と問いながら暮らしています。その問いかけが、自分の納得のいく答えにつながれば良いのですが、納得のいく答えが見つからないと、不安や怒りやいらだちを感じます。

何故でしょう。それは私たちが善因善果・悪因悪果を期待していたり、そうすることが神仏の役割だと心のどこかで期待しているからではないでしょうか。私たちの国の場合、仏教や神道などの影響で考えれば、そこに運命や宿命や人生のはかなさと感じる人もあるでしょう。現実においてはただ「運が悪い」としか言いようがない出来事です。

聖書によれば、イスラエルの民は「善いことも悪いこともすべて神のみ心」として、考えるでしょう。人間的な心情では理解できなくとも、神のご意志として受け入れるよう努めるのだと思います。しかし、これはとても信仰が求められることです。確かに神さまの知らないことはなく、了解なしには物事は起こらないのです。

しかし、自業自得とは思えない事態が起こった時、つまり「本人に責任がない」と思える事態に不幸が起こった時は、どのように理解したらよいのかは言葉に表せません。「すべては神のみ心」とは簡単に言えないし、「すべてのことを益としてくださる」とも言えません。もし言ってしまうと、それは偽善のように思えます。そんなに簡単に、私たちの周りで起こってくることを説明できるのでしょうか。

もし私の身近で不測の事態が起こったなら、被害者の人もまた加害者の人も、それぞれに大きな痛みと悲しみを背負った人として受け止め、「原因探し・理由探しをしない」をしないようにします。そして、あえて「決めつけない・判断しない」ことを選びたいと思います。もし神さまが何かの意図を持っておられるとしても、「その時」までは分からないからです。

*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。

かつもと・まさみ 1950年熊本県生まれ。聖契神学校卒業後、立正大学仏教学部(日蓮宗)を卒業。あわせて僧階課程を修了。その後、仏教大学で仏教学(浄土宗)を専攻。神道や民俗宗教の学びの必要を覚えて、神道宗教学会に加入。郷里熊本で牧会の後、1990年から千葉県流山市で開拓伝道を開始した。後に日本聖契キリスト教団に加入し、聖契神学校講師(比較宗教·日本教会史)を担当。著書に『日本人の生活習慣とキリスト教』『日本の宗教行事にどう対応するか』(いずれもいのちのことば社)など。

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