お金の限界【聖書からよもやま話491】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ゼパニヤ書の1章です。よろしくどうぞ。

ゼパニヤ書 1章18節

彼らの銀も、彼らの金も、
主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

僕たちはどうして日々、お金を稼ぐのでしょう。快適な生活をするため、欲しいものを買うため、家族を守るためなどなど、様々な答えはあると思いますが、突き詰めれば最終的に「生きるため」というシンプルな答えに行き着くかと思います。たしかにお金は生きるために必要です。お金がなくては生きていけません。それは聖書が書かれた時代よりも現代の方がむしろ顕著でしょう。しかし、確かにお金は日常生活では生活を守ってくれますが、日常から離れたまさに生死を分けるような場面では、実は「生きる」ことを守ってはくれません。

大災害で社会インフラがストップしてしまえば、お金が機能しなくなることもあり得ます。現在のようにお金の電子化が進んでいればなおさらです。電子マネーはたくさん持っているのに目の前の食べ物が買えない、なんてこともあるかもしれません。現金だって本当の緊急事態ではどこまで役に立つかわかりません。
重い病気や怪我をして生死をさまよっている場合も、お金はあまり役には立ちません。確かにお金がたくさんあれば高度な医療を受けられるかもしれませんが、現代医術では治療不可能な症状であれば、お医者さんにいくら大金を積んでも命を救うことはできません。

そもそも、人は生まれた以上、必ず一度死ぬ存在です。誰も「死」を経験しないことなんてできません。それはいくらお金があってもまったく動かない事実です。どんな大金持ちが「お金はいくらでも出すから俺を不老不死にしてくれ!」と言ったところで完全に無駄です。そしてさらには、やがて来る最後の審判のときにはいくらお金を積んで「天国に行きたいんです、お願いします」と頼んだところでダメです。

お金は大切なものですが、万能ではありません。その力には限界があります。お金の定義には色々なものがあるでしょうが、僕は「人間の権力を数値化したもの」と考えてみたりもしています。そう考えると、お金で得られるものはあくまで人間の権力、人間の能力でなんとかなる範囲のものだけです。人間の力の及ばないことについて、お金は完全に無力なのだと言えます。お金の力の限界を考えるとき、おのずと人類の力の限界が見えてきます。仏教の用語を借りますが「生病老死」という人間の避けられない性質に対して、お金=人間の力は無力なんです。

・・・とはいえ、「だから私にお金は必要ありません」なんて聖者のようには生きられません。お金は欲しいです。たくさんとは言いませんが、もう少しだけくださいませんか神様。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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