木を育てたら実を食べたい。労働と報酬の分離。【聖書からよもやま話247】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨエル書の1章です。それではよろしくどうぞ。

◆ヨエル書 1章12節

ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれた。
ざくろも、なつめ椰子も、りんごも、
野のすべての木々は枯れた。
喜びが人の子から消え去った。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ヨエル書1章には「とんでもないイナゴの大群がやってくるぞ」という預言が記されています。畑はすべて彼らに食い荒らされ、ぶどうもいちじくも、何もかも彼らが食い尽くし、人からすべての喜びが消えると。

果物の木に実ができない。できてもそれを食べることができない。これは人間にとって大きなストレスです。現代日本でも、結果を出すことを「結実する」なんて言ったりします。実を結ぶことは喜びですし、その実を食べることも喜びです。反対に、実を結ばないこと、その実を食べられないことは辛いものです。仕事をしても結果がでなかったり、結果を出しても報酬をもらえなかったりすると、誰しも大きなストレスを感じます。何をしても実を結ばなければ、実を食べられなければ、人間から喜びは消え去ってしまうんです。これは今も昔も変わらないことかと思います。

「自分は報われていない」と感じながら生きている方は今の社会にはとても多いと思います。きっと「自分は十分に報われている!」と感じながら生きる人の方が少数派かと思います。木を育てることと、その実を食べることが現代社会では分離してしまっていることが大きな問題です。マルクスさんはこれを「疎外された労働」と表現しましたが、自分が今していることと、そこから生まれるもの、その生まれるものから自分が受ける恩恵、これがお互いにしっかり結びついていなければ、人間は幸せにはなれないのかと思います。

それを結びつける手段として共産主義がちゃんと機能したか、あるいはするのかという問題はまた別の非常に難しい問題ではありますが、しかし少なくともこの「疎外された労働」に人間の不幸の原因の一端があるというマルクスさんの見立てには一面の真理はあるのかと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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