「してあげる」だけが愛じゃない。「してもらう」ことも愛です。【聖書からよもやま話140】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  歴代誌第一の19章です。それではよろしくどうぞ。

◆歴代誌第一 19章4節

そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、ひげを剃り落とし、衣を半分に切って腰のあたりまでにして送り返した。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イスラエル王国とたびたび争いを繰り返していたアンモン人の王、ナハシュが亡くなったとき、ダビデは「残念だ。その子ハヌンにお悔やみを言わなければ」と、弔問の使者を派遣しました。長い歴史で見れば民族同士は仲が悪かったのですが、この時代、ダビデとナハシュの間には個人的な信頼関係が少なくともある程度はあったようです。ですからダビデはナハシュの後継者であるハヌンとも「引き続き仲良くやりましょう」と言いたかったわけです。

しかし、使者がやってくるとハヌンは側近たちから「ダビデは心から弔問しているのではなく、この国の様子を探るために使者をよこしたんですよ。あわよくばこの国を奪うために」とそそのかされ、それを真に受けて、ダビデの使者たちの髭を剃ったり、服を半分切り裂いたりして恥ずかしめた上に追い返しました。

これをきっかけに再びイスラエルとアンモン人との間で大きな戦争が起こり、アンモン人はこてんぱんにやられてしまいました。

武田信玄と上杉謙信は、しょっちゅう戦争をしていましたが、個人間ではそれなりの友情というか信頼関係があったようです。それで有名な「敵に塩を送る」の故事も生まれました。ダビデとナハシュの関係もこれに近かったのかも知れません。もし謙信が塩を送った時に信玄がその使者を恥ずかしめて追い返したりなんかしたら、それはもうどちらかがどちらかを滅ぼすまでの壮絶な戦になったことでしょう。ハヌンがやってしまったことはそういうことです。
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この話から得られる一つの教訓は「人の善意は素直に受け取っておけ」ということかと思います。もちろん、そこに本当に悪意が含まれていることだってあるかもしれません。でも、そんな時でも相手の善意を「警戒しつつ」とか「形式だけでも」受け取っておけば良いわけで、恥ずかしめて追い返す必要はないんです。

たとえば、あまりそりの合わない人からプレゼントを贈られたなら、「あなたは仲良くないから受け取らないよ!」と露骨に拒絶するのではなく、ひとまず「ありがとう」と受け取っておくとか、そんな素直さが実は争いを遠ざける大きな策の一つなのではないかと思います。今は仲良くないとしても、だからこそ相手はあなたと仲良くなりたいと思っているかもしれないんです。その手をむげに叩き落としてしまったら、きっともうその人との関係は悪くなる一方で良くなるきっかけを得ることさえ困難になるでしょう。だって反対に、自分のプレゼントを「あなたは嫌いだから、あなたのプレゼントは受け取れない」なんて言われたら傷つきますよね。その人とは二度と口もききたくなくなりますよね。

人って、人から嫌なことをされても怒るものですが、それと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、人から自分の厚意を無駄にされることに怒るものです。愛というと「自分から何かをしてあげること」と思いがちですが、それと同時に「相手のしてくれることを、ちゃんと受け取ること」も愛です。それも相手に対して自分の愛を示すことなんです。

「してあげる」だけが愛じゃない。「してもらう」ことも愛なんです。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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