計量スプーンで琵琶湖の水を測っても無駄です。【聖書からよもやま話73】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、イザヤ書の40章です。それではよろしくどうぞ。


◆イザヤ書 40章12節

だれが手のひらで水を量り、
手の幅で天を測り、
地のちりを升に盛り、
山々を天秤で量ったのか。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


どんな測量にも、ふさわしい単位というのがあります。100m走のトラックを用意するために、巻尺を使う人は多いと思いますが、定規を使う人はいないでしょう。ましてマラソンのコースを用意するのに定規なんか使っていたら気がいくら遠くなっても足りないくらいです。

お風呂にお湯を張るのに、計量スプーンを使う人はいません。ましてプールに水を入れるのに計量スプーンなんて使っていたら、きっと水が貯まる前に夏が終わってしまいます。

今日の箇所で聖書が語っていることは、神様を人間の尺度で推し量ろうとすることは、マラソンコースを定規で、プールを計量スプーンで測るようなこと、いや、もっとひどいことだ、ということです。続く18節には、「あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。」と記されています。どんなに精巧な像を作ろうとも、それをどれだけの金銀で飾ろうとも、神様の栄光を示すにはあまりに足りない、ということです。

人間は、今も昔も、神様を「自分の理性」で割り切ろうとします。理性は確かに人間に与えられた有用なツールですが、それは計量スプーンでプールを、いや琵琶湖を、いや太平洋を測ろうとするようなものなんです。もちろん計量スプーンだって有用なツールです。これがなくてはおいしい料理は作れません。でもそれで琵琶湖や太平洋を測量するのは誰がやっても不可能です。計量スプーンには計量スプーンの役目、理性には理性の役目があるんです。

さて、これからお風呂をためつつ、たまるまでの間にきんぴらごぼうを作ろうと思います。僕のきんぴらの黄金比はごぼう300gに、ごま油大さじ1、砂糖大さじ2、醤油大さじ3です。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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