手紙に愛を添えるのは、弁当に箸を添えるのと同じ【聖書からよもやま話280】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、コリント人への手紙の2章です。よろしくどうぞ。

コリント人への手紙第二 2章4節

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

パウロの手紙のこの部分だけを読めば、それはまるでラブレターのようです。もちろん全体を読めばそれは直接的にはラブレターではないのですけれど、しかし間接的・最終的にはやっぱりこれはラブレターなのかもしれません。

僕は物書きを仕事にしているくらい、昔から文章を書くのが好きですし、国ならないので人に何かを伝えるときにはよく文章を使います。さすがにパウロのように手紙を出すことはあまりないですが、メールやLINE、messengerは非常によく使います。これらはいわば現代の手紙です。

僕もときには仕事やら何やらで「苦しみと心の嘆き」を伝えることがあります。まぁその多くはそんな大袈裟なものではなく仕事上の要望とか改善要請だったりするのですけれど。でもそんなことを伝えるときに、相手を悲しませたり嫌な気持ちにしたりは良くありません。ここでパウロが言っているように「あふれるばかりの愛を知ってもらうために」書くべきだと思います。その点ではあらゆる「手紙」はラブレターであるべきなのだと思います。どんな内容を伝える「手紙」であっても、必ず一つは「愛」を伝えること、これが大切なのかと思います。
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思い返せば、本当のラブレターであっても、つまり大切な人へのメールやSNSであっても、時として僕たちは愛を伝えていません。満たされない「苦しみと心の嘆き」ばかりを伝えてしまって、肝心の「愛」を伝えていない、ということがあるのではないでしょうか。

どんな弁当も箸がなければ食べられません。学校や遠足に持っていった弁当に箸を入れ忘れて困った経験をしたことのある方は少なくないと思います。せっかくの弁当も箸がなくて食べられなくてはもったいない。「手紙」も同じで、愛が添えられていなければ、ちゃんとそれを受け止めることができないのではないでしょうか。弁当に箸を添えるように、「手紙」には愛を添えることを忘れないようにしたいと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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