主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、コロサイ人への手紙の4章です。それではよろしくどうぞ。
◆コロサイ人への手紙 4章3節
同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために私は牢につながれています。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
パウロはコロサイ教会の人たちに、たゆみなく祈ることを教えた後で「私たちのためにも祈ってください」と祈りの要請をしています。パウロはこの頃、ローマ帝国によって投獄されて牢の中にいました。
投獄されている時ももちろんですが、病気のとき、悲しい時、苦しい時、様々な場面で僕たちには祈りが必要です。自分で祈ることももちろん大切ですが、誰かに祈られることも大切です。しかし僕たちはつい「自分のために祈ってください」という祈りの要請を後回しにしてしまいがちです。特に日本人は「人に心配をかけたくない」とか「わざわざ自分のために時間をとらせてしまうのは悪い」とか思ってしまいがちですが、パウロだって投獄の苦境の中にあって、祈られる必要を感じて祈りの要請をしたんですから、そこはもっと遠慮なく「祈ってください!」とクリスチャン同士で要請しても良いのだと思いますし、そうすべきなのだと思います。
そもそも「心配をかける」というのは必ずしも悪いこととは限りません。もちろん、むやみやたらに心配をかけてしまうのは良くないことでしょうが、人はみんな心のどこかで家族や友人や大切な人の心配をしたいものです。なぜなら心配は「心を配る」と書くその文字通り、相手に心を寄り添わせることですから、それそのものがその相手との繋がりでもあるんです。「心配しないで!」なんて言葉に対して、「心配くらいさせろ!」という答えが返って来たりもするものです。ですから「祈ってください」「心配してください」というのは、「私と心を繋げておいてください」と言い換えられるのかと思います。そう考えれば誰かに心配をかけるというのも悪いものではありません。
また僕たちは牧師や神父などの聖職者に対する祈りを忘れがちです。仏教徒の方でもたとえば、お坊さんにお祈りしてもらうことはあっても、お坊さんのために祈ることは少ないのではないでしょうか。同じようにクリスチャンも聖職者に対する祈りを忘れてしまいがちです。しかしパウロはこのことばで、聖職者にも、否むしろ聖職者にこそ、祈られることが必要なのだということを教えています。
祈るばかりでなく祈られることも、祈りのネットワークを構築するためには不可欠なことです。物流のネットワークだって、例えば買うばかりでは成立しません。買いと売りのバランスによってそれは成立します。祈りにも祈ることと祈られることのバランスが必要です。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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