聖書を自分で読めるって、実はすごいこと!!【聖書からよもやま話233】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
実は今日でこの【聖書からよもやま話】一周年を迎えました。
あらためて初回を読み返してみると懐かしく感じます。

さて今日もランダムに選ばれた聖書から語ります。
今日は新約聖書 ヨハネの黙示録の1章です。それではよろしくどうぞ。

◆ヨハネの黙示録 1章3節

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

聖書を朗読することは良いことです。黙読するのとはまた違った発見を与えられたりします。と、いうわけで聖書自体も聖書を朗読することを僕たちに勧めています。・・・と、言いたいところですが、たしかにもちろん朗読は良いことですけれど、単純にこの箇所では現代の僕たちに朗読を勧めているわけではないのかもしれません。少なくとも「黙読ではダメだ!朗読しろ!」ということではないように思います。

と、いうのも、このヨハネの黙示録が記された1世紀の頃、字が読める人は今よりもうんと少なかったはずです。そして印刷術も発明されていませんから聖書自体も貴重なものでした。聖書を入手することが非常に困難で、しかも入手しても字が読めない人がほとんど。当然、自分で聖書を読めるのはごくごく限られた人だけでした。ですから人々が聖書のことばに触れる手段は、聖書を持っていてなおかつ字の読める人が朗読してくれるのを聴くというのがメインだったんです。

こういう時代背景を前提にこの箇所を読んでみれば「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて・・・」というのは、現代に置き換えればシンプルに「聖書を読んで、それを実践せよ」ということなのかと思います。とはいえもちろん、現代においても聖書を朗読することは良いことですし、一つの推奨される読み方であります。
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こんなことを考えると、聖書を簡単に入手できて、なおかつそれを自分で読むことのできる現代に生まれたことの幸運を感じます。いま、多くの教会やクリスチャンが当たり前のように「聖書を読みましょう」と言いますが、それを多くの人ができるようになったのは、歴史を鑑みればごく最近のことです。活版印刷術が発明されて聖書が大量印刷されるようになったのは15世紀のことですし、識字率がここまで高い数値になったのはここ100年くらいのことです。日本では幕末頃には50%ほどの識字率があったと言われていますが、これは当時の世界としては驚異的なことで、たとえば同時代のイギリスでは10%ほどだったそうです。

自分で聖書を読めることのありがたさを、あらためて噛み締めたいと思います。でも時には気分を変えて、誰かに朗読してもらってそれを聴くのも新鮮かと思います。気軽に朗読してもらいたい時は、今はスマホで「聴くドラマ聖書」なんてアプリもあります。無料で聖書全編を読み聞かせしてもらうことができます。とても重宝します。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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