主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日でちょうど200回目となりました。思えば遠くへ来たもんだ。でもまだまだ先は長いです。さて今日は 旧約聖書、詩篇の46篇です。それではよろしくどうぞ。
◆詩篇 46篇1節
神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。
それゆえわれらは恐れない。
たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
これは詩篇の中でも有名なフレーズです。真に神様を信じている者は何事にも恐れることがないということです。なぜなら神様はピンチの時の逃げどころになってくださり、また苦しい時には必ず助けてくださるからです。そしてそれは、たとえ山が海の中に入るようなことがあっても、すなわち「どんなことがあろうとも」です。
とはいえ人間は恐れる存在です。僕だってそうです。「神様を信じているから何も怖くないです」なんて、とてもじゃないけど言えません。死ぬのはもちろん怖いですし、痛いのも怖いです。苦しいのも怖いですしお金がなくなるのも怒られるのも失恋するのも怖いです。
でも一つ心掛けているのは「あぁなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」と、まだ起こってもいないことについて、あれやこれやと想像力を働かせて恐れてしまうのはやめようということです。人間の想像力ってすごいものですから、やろうと思えばいくらでもあれやこれやと悪い状況を想像して恐れることができてしまいます。ヒルティという哲学者は「恐れや不安は役に立たない感情だ」と述べています。それは、いくら何かを不安に思ったり怖がったりしても、その事態を回避するのには一つも役に立たないからです。
たとえば「上司に怒られたらどうしよう?」といくら悩んでも、実際に上司に怒られる確率は少しも下がらないということです。「大地震が来たらどうしよう?」といくら悩んでも地震の来る確率は下がりません。そして究極的には「死ぬのが怖い」といくら悩んでも、自分が死ぬ確率は絶対にまったく下がらず、必ず1回の死をいずれ経験しなければなりません。
つまり、恐れることで未来が好転することは実はあんまりないんです。もちろん、地震に備えて防災対策をしておくこととか、上司に怒られないように仕事のチェックを怠らないことなんかは大切です。しかし、ただ漠然と「怖い。不安だ」と考え込むことに、意味はないんです。それは自分の想像力で自分を痛めつけているだけです。想像力は自分を痛めつけるために与えられたものではありません。
とはいえ、どうしたって死ぬのは怖いものです。痛いのも怖いものです。苦しいのも怖いものです。そういったものに対して不安になるな、というのは無理があります。でもそういった自分の力ではどうにも避けられないものは、神様にお任せしてしまえばいいんです。どうにもならない何かを恐れる心が生じた時には、「神様が悪いようにはしないから大丈夫」と、神様に丸投げしてしまえばいいんです。そうすれば無用な恐れや不安で心を消耗させずに済みます。
想像力は自分を苦しめるためではなく、自分を楽にしたり、楽しくしたりするためにあるんです。そして何より、神様を信じるために与えられているものです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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