主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧訳聖書、 エステル記の9章です。それではよろしくどうぞ。
◆エステル記 9章10節15節16節
しかし、略奪品には手を出さなかった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
エステル記9章には、ユダヤ人たちが自分に敵対する者たちを討ち滅ぼす様子が記されています。10節にも15節にも16節にも、彼らがたくさんの敵を討ったことが記されていますが、その度に聖書はいちいち「しかし、略奪品には手を出さなかった」と強調しています。これはつまり、彼らは戦の中にあっても「敵を倒す」という目的から心をぶらさなかったということです。
略奪が行われないことは、その軍の統制がしっかりと行き届いているという証拠でもあります。反対に、略奪が行われるのはその軍の統制が行き届いていない証拠です。兵士たちが当初の目的を忘れて私利私欲を満たす行為に走るのを、上官が止められないということですから。また、略奪が行われないというのは、その軍に食料などの物資が十分にあることの証拠にもなり得ます。つまり、略奪を行わない軍は、統制が取れており、なおかつ物資が潤沢にある、すなわち強いということです。
さらには、どんな立派な大義名分を掲げていたとしても、そこで略奪が行われてしまっては、「所詮は私利私欲のためだった」との誹りを免れません。どんな理念も、私欲を満たす行為によって汚され、壊されてしまいます。それは戦争に限ったことではありません。どんな大義を掲げた行動も、そこに私利私欲が働けば、その大義は次第に大義ではなくなってゆきます。反対に、私利私欲の入り込まない行動は、統制がとれており強いということでもあります。
国や党が、立派な理念を掲げながら私利私欲に汚れていく様子を、僕たちはニュースや新聞で見聞きします。それは日本に限らず、残念ながら世界中で起こっていることです。それを批判・糾弾することもできますが、僕たちはその前に、自分の胸にも手を置く必要があるかと思います。何かの理念を抱いて行動してもうまくいかないとき、もしかして自分は何かを「略奪」してはいないか、私利私欲を満たす行為をしていないか、自省してみる必要もあると思います。世界中でそれが起こっているということは、それをしないことが人間にとってどれほど難しいことかを示しています。自分自身も人間である以上、同じことです。「略奪しない」ということは、一見「それは人間としてあたりまえでしょ」なことに思えて、実はよく考えると難しいことなんです。だからこそ聖書は1章で3回も「略奪品には手をつけなかった」と、この時のユダヤ人の正当性を強調しているんです。
ウクライナに侵攻したロシア軍の中でも、マーケット等での略奪行為が起こっているようです。これは軍の統制がとれておらず、物資も不足している証拠と言えるかもしれません。また、汚職をする人が多い国や組織も、国の統制が取れていない証拠です。
組織のトップの理念のあり方は、末端の人々の行動に現れます。
個人の心の中の理念のあり方は、末端の手足の行動に現れます。
自分のとっている行動が、果たして本当に理念のためなのか
それともどこかで私利私欲のためなのか、しっかり吟味し続けなければと思います。
主にありて。
MAROでした。
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