主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新訳聖書、 ルカの福音書の12章です。それではよろしくどうぞ。
◆ルカの福音書 12章25節
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
心配とか不安というのは、それ自体はあんまり力を持っていません。何かを心配しても、その何かを避けるのに必ずしも意味はありません。たとえば「大地震が来たらどうしよう?」といくら心配しても、明日大地震が来る可能性はまったく減りません。もちろん「いつ来ても良いように備えておく」ということはできますし、それは良いことですけれど、それは心配に「備え」という行動が伴ってこそできるのであって、ただ心配しているだけでは何にもなりません。「心配だから○○しよう」というタイプの心配なら意味や力を持ちますが、ときに人間は何の行動も伴わずにただ「心配だ、心配だ・・・」とあたふたしてしまうことがあります。
そしてそれは死についても同じことです。死は誰しも怖いものでしょうが、それに対していくら心配しても、「自分はやがて死ぬ」という事実はまったく動きませんし、その時期を遅らせることもできません。
面白いことに、この箇所の「いのち」という部分は別訳では「身長」とも訳せるそうです。「心配したからといって、少しでも自分の身長を伸ばすことができるでしょうか」この方がもしかしたら「いのち」よりもリアルに感じられるかもしれません。体重はある程度コントロールができますが、身長をコントロールするのは非常に難しいことで、身長というのはそれこそ神様から与えられたままに生きるしかありません。身長が高いのも低いのも神様が決めたことでどちらも等しく尊く、寿命が短いのも長いのも神様が決めたことで、これまたどちらも等しく尊いものです。寿命にせよ身長にせよ、他の何にせよ、神様から与えられたままに生きるしかないものはたくさんあります。才能や得手不得手など、一見「自分でコントロールできる」ように見せかけて、実はしきれないものもたくさんあります。それらもまた、神様が決めたことで才能があるもないも、どちらも等しく尊いんです。
聖書がここで言っていることは「自分でコントロールできないことを、心配するのはやめなさい」ということです。それは神様のコントロール下にあることであって、自分でコントロールできるものではないのですから、神様に任せておきなさい、ということです。
たとえば飛行機に乗っているときに、飛行機が墜落する確率を下げることができるのは操縦士だけです。乗客がいくら心配してもその確率は上がりも下りもしません。だったら何も心配せずに機内食をおいしく食べている方が幸せですし、操縦士さんもその方が嬉しいでしょう。同じように神様が操縦桿を握っていることについては心配しなくて良いということです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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