クリスチャンであるための条件【聖書からよもやま話147】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新訳聖書、  テモテへの手紙第一の3章です。それではよろしくどうぞ。

◆テモテへの手紙第一 3章2〜3節

ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、・・・
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ここでいう「監督」というのは、簡単に言えば教会の指導者のことで、現代で言えば牧師さんとか神父さんとか教会役員さんとかにあたります。そういう立場に立つ人の条件をパウロさんはここで列記しているのですが、すごく厳しい条件ですよね。「自分がこれにちゃんとあてはまるだろうか・・・」と、胸に手を置いて考えてみたら、きっと誰も「我こそはふさわしい!」なんて言えないと思います。むしろそう言ってしまえるなら、その人は最もこの条件にあてはまっていない人かもしれません。パウロさん自身も、「あなたはこれを満たしているのですか?」と問われたら「私もまだまだです」って答えたのではないかと思います。

でも、そんなこと言ったら誰も教会の指導者になんてなれませんよね。大切なことは、自分でこの条件を満たすのではなく、神様によってこのような者に変えられるように祈ることだと思います。この条件を満たしている自分ではないことを自覚し、それでも用いてくださる神様の愛に感謝することだと思います。

そして、この章の後半では、教会の指導者だけでなく、「執事」すなわち教会で様々な役割を担う人たちにも同じような条件が列挙されています。つまり「僕は牧師とか役員とかじゃないから適当でいいや」ということはないんです。教会に属し、教会で何かをするなら、誰であってもここに記されている条件が課されるわけです。ですからここに列挙されている条件は、ある意味では「クリスチャンであるための条件」とさえ言えます。もちろん「これを満たさなければクリスチャンではない!」という意味ではありません。「これを満たしていないからうちの牧師はダメだ!」なんて裁いてもいけません。あえて断言してしまいますが、この条件をすべて満たしているクリスチャンも牧師も神父も役員も世界中に一人もいません。しかし教会に属するなら誰であっても、つまりクリスチャンであるなら誰であっても、この条件を満たさない自分を自覚し、満たせる者へと変えられるように祈り続ける必要があるんです。満たしている人がクリスチャンなのではなく、満たせないからこそ祈るのがクリスチャンなんです。そしてその祈りの先頭に立っているのが、教会の指導者なんだと思います。
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さて、この条件の中に「一人の妻の夫であり」と書いてあるのが気になる方もいるかと思います。「結婚してなきゃ教会で何かをしちゃダメなの?」と。そんなことはありません。この手紙が書かれた時代は、一夫多妻の文化がありまして、この記述はそれを念頭に置いたものです。つまり「複数の人と結婚しているのはダメですよ。一人だけと結婚している人じゃなきゃダメですよ」と言っているんです。パウロは別の箇所ではむしろ独身を勧めたりもしていますから、独身であることに問題はありません。現代で言えば「不倫とか、それに準ずるようなことをしている人はダメですよ」ということです。

神様のハードルはいつも高いです。でもいつか、神様によって僕たちはそれを越えられる者へと変えられていくんです。自分で越えなくていいんです。それは不可能なことですから。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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