聖書に記されているのは「自分ではない誰か」の話ではありません【聖書からよもやま話148】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧訳聖書、  エゼキエル書の16章です。それではよろしくどうぞ。

◆エゼキエル書 16章6節

わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

なんとも生々しい描写ですが、これは生まれたまま産湯で洗われることもなく、産着にくるまれることもなく捨てられた赤ちゃんの話です。そのような赤ちゃんに、神様は「生きろ」と言い、拾って育てて何一つ不自由なく成長させました。しかし、その赤ちゃんは自分が美しく成長すると、その美しさを振り回して悪いことばかりするようになりました。神様にしてもらったことを忘れて、神様の嫌がることばかりをするようになりました。

これはエルサレムの街に対する比喩です。エルサレムは元々決して大きな街ではなく、むしろ取るに足らない小さな街であって、捨て子のように誰にも見向きされないような街でしたが、そんな街を神様は選んで、立派に育て上げました。しかしやがてエルサレムの人々はそのことを忘れて、神様の嫌がることばかりをするようになりました。
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僕はこの箇所を読んで、自分が神様に出会ったことのことを思い出しました。荒んだ心で毎日を過ごし、まさに「血に染まった赤ちゃん」のような状態でした。「もう、いつ死んでもいいや」と思っていましたし、「だったら今でもいいか」とさえ思っていました。そんなときにまさに神様から「生きろ」と言われ、ワラをも掴む思いで聖書を読み始めたのを今でも覚えています。

そんなことがあってから20年ほどが経ちましたが、成長したこの赤ちゃんと同じように、時として神様がしてくださったことを忘れて、神様の嫌がること、悲しむことをしてしまうことがあります。「してしまうことがある」というより「してしまってばかり」かもしれません。聖書は「過去の誰か」のことを書いた書物ではなく、「今の僕自分」のことが書かれた書物でもあるのだと思わされます。神様がここで嘆いているのは「過去のエルサレム」に対してであるのと同時に、「今の僕自身」に対してでもあるんです。

しかしこの章の最後には「それでもわたしはあなたを赦し、愛するぞ」と記されています。ここで赦されるのも「過去のエルサレム」だけではなく、「今の僕自身」でもあるんです。神様の、場所も時代も越えた、あまりに大きな赦しに驚くばかりです。

聖書を「自分ではない誰か」の出来事として読むのなら、そこに与えられる愛も赦しも「自分ではない誰か」のものでしかありません。耳が痛くても、むしろ耳が痛い箇所こそ、「他の誰でもない自分」の出来事として読むときに、聖書は「他の誰でもない自分」に神様の愛と赦しを告げ知らせてくれる本になるんです。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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