【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスと「共同存在における悪」の問題

「バビロンの泥沼の中を転げ回る」とは、いかなることを意味するのか

前回の記事では「情欲の問題」を取り上げましたが、今回は『告白』の言葉が語るところに従って、「盗みの問題」を取り上げなくてはなりません。16歳になったアウグスティヌスは、本人の回想するところによれば、同じ年頃の仲間たちとともに悪いことをするのに夢中になっていました。

「わたしは、仲間のものが自分の醜行を誇り、恥ずべきことが少ないのをかえって恥じるのであった。[…]わたしはそしられないために、かえって罪を重ねた。そしてそれを犯すことによって、堕落した仲間のものにひけをとらなくなるような罪がないときには、じっさいに犯さない罪を犯したと偽った。[…]まあ、何という連中とともに、バビロンの街路を歩きまわって、その泥沼のうちに、あたかも肉桂や香油の中であるかのように、ころげまわっていたことであろう。」

「バビロン」とはこの世の罪悪を言い表すために、現代においてもひんぱんに用いられている常套語です。今回の記事では、この時期のアウグスティヌスがしていたことを『告白』の物語を通して振り返りつつ、「バビロンの泥沼の中を転げ回る」とはいかなることを意味するのか、哲学の観点をも交えて考えてみることにしたいと思います。

仲間たちと組んで、近所のぶどう園から梨を大量に盗む

10代の半ばといえば、知的能力も行動力も大きく成長し、いい意味でも悪い意味でも大人の世界への仲間入りを果たし始める時期ですが、16歳のアウグスティヌスもまた、血気盛んな男の子たち皆が夢中になることに打ち興じていました。彼は、夜な夜な仲間たちと「いつもの溜まり場」に集まって、悪いことの計画を立てては盛り上がっていたのです。

上に引用した文章でも言われているように、仲間たちのうちでは、それぞれが犯した悪さについて自慢し合うのが常でした。彼が言うところでは、告白する罪がない時には嘘をついて自分自身の犯した罪悪をでっち上げることもあったようですが、そんな彼らが皆で夢中になったのが、近所のぶどう園から梨を大量に盗むことにほかなりませんでした。

少年たちは、大人たちが寝静まった真夜中に忍び込んでいって、木を揺さぶって実を落とし、梨をどっさりと持ち帰りました。食べることが目的ではなく、純粋に盗むことの快楽を味わうのが目的だったようで、本人の振り返るところによれば、盗んだ梨のほとんどは「豚にあげた」そうです。4世紀のローマ帝国の少年たちが「いつもの溜まり場」ではしゃぐ様子がありありと思い浮かんでくるようなエピソードですが、『告白』においてアウグスティヌスがこの出来事について多くのページを費やして語っているのは、彼がこの出来事についての省察を通して、「罪なるものの根源」を見て取っているからにほかなりません。

共同存在が悪へと向かうとき

物を盗むのは確かに悪いことですが、「その年頃の少年たちなら、その位の悪さはするものだ」という見方もあるかもしれません。それでもアウグスティヌスが、この盗みに及んだ動機について『告白』のうちで詳細な分析を加えているのは、この「小さな罪悪」のうちに、人間存在が犯すすべての大きな罪と同じ構造を見ているからです。私たちの読解では、今回と次回の二回に分けてこの分析をたどり直すことにしたいと思いますが、今回の記事においてまず注目しておきたいのは、このエピソードにおいては、「共謀の心理」が非常に力強く働いているという実存論的な事実にほかなりません。

アウグスティヌス自身も振り返っているように、彼は自分一人であったなら、決して梨を盗み出したりはしなかったことでしょう。盗むことの快楽、罪悪を犯すことの喜びは、彼を実際の行動へと移らせるほどではありませんでした。この快楽が、仲間たちと共に時間を過ごしている時にはこの上ない誘惑となってきて、実際に彼に罪悪を起こさせるに至るのです。人間は他者たちと共同存在する生き物ですが、ここではその「共同存在することの力」が、共に悪を行うことへの誘因として、非常に強力に働いてしまっているのです。

ここには、私たち人間存在が抱え込んでいる深淵が大きく口を開けていると言わざるをえないのではないか。16歳のアウグスティヌスと仲間たちに梨を盗ませたのと同じ論理が、この世のあらゆる種類の「集団による悪」を、絶えることなく生み出し続けています。決定的な回心を遂げた後のアウグスティヌスは、友人たちと共に「真実の知恵の探求」に打ち込むという仕方で「本来的な仕方で共同存在すること」の可能性を探し求め続けたとはいえ、この時期の彼には言うまでもなく、まだそうしたことの影も形も見当たりません。彼には、なお十年以上の歳月を「バビロンの泥沼の中で転げ回る」ことで過ごすという運命が定められているものと思われます。

おわりに

「『さあ、行こうよ、やろうよ』といわれると、わたしたちは恥知らずでないことをかえって恥じるのである。」共同存在する人間たちが陥ってゆく「共謀の心理」の陥穽を言い表すための言葉として、「恥知らずではないことをかえって恥じる」はまさしく至言であるというほかありません。「悪い」が「よい」へ、「汚い」が「きれい」へと驚くほど容易に反転してしまうという意味では、人と人が共に生きているという実存論的事実のうちには、真実な喜びが生まれる可能性のみならず、恐ろしいまでの危険の可能性もまた存在していると言わざるをえないのではないか。次回の記事では、『告白』の言葉に引き続き耳を傾けつつ、人間存在に「人として生きるための掟」を破らせてしまう力について、さらに掘り下げて考えてみることにしたいと思います。

 

[「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」信仰の書のうちではこう語られていますが、『告白』におけるアウグスティヌスの省察もまた、他者たちの罪を糾弾することよりも、自分自身の内なる罪を見つめ返すことの方に捧げられています。筆者自身、この連載の機会がなかったら、この本をここまで時間をかけて読み返すこともなかったかもしれませんが、探求に付き合ってくださる方がいるおかげで、『告白』の言葉を通して、日々考えさせられ続けています。読者の方々に感謝しつつ、引き続き読解を続けてゆくことにします。]

 






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