喉もと過ぎて熱さを忘れるより、喉もと過ぎて恵みを忘れる方が罪深い【聖書からよもやま話107】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、詩篇の4篇です。それではよろしくどうぞ。


◆詩篇 4篇1節

追いつめられたとき
あなたは私を解き放ってくださいました。
私をあわれみ私の祈りを聞いてください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ってよく言われますけど、その反対のことも往々にしてあるものだな、と、この聖句を読むと思わされます。長く信仰生活を送っているクリスチャンの方なら、追い詰められたときに神様に祈って、神様から助けられた経験を持っている方が少なくないと思います。僕もそんな経験が実は何度もあります。あることをするのにどうしても必要なお金がなかった時、神様に祈ったらその翌日にとある会社から臨時の仕事の依頼が来て、その報酬がちょうどその必要な額だった、とかです。

しかし、そんな経験を一度ならず二度までも、いや、三度も四度も何度もしているくせに、僕は今でも窮地に陥るたびに「今度こそダメかもしれない」と思ってしまったりします。それは神様をちゃんと信頼していない証拠です。信仰の薄い証拠です。まだ一度も実際に助けられたことがないならまだしも、何度も実際に助けられているのに信じられないとは、本当に神様に対して失礼だと思わされます。

「追いつめられたとき、あなたは私を解き放ってくださいました」この聖句を読むたびに、「そうだった!僕も何度も助けられたのだ!」と思い出すんです。何度でも思い出すのに、何度でも忘れてしまう。なんと罪深い、信仰の薄い自分かと思わされます。

喉もと過ぎて熱さを忘れるよりも、喉もと過ぎて恵みを忘れることの方が、クリスチャンにとっては罪の深いことではないかと、自戒をこめて、というか、もうもはやほぼ自戒でしかありませんというくらいに、思います。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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