主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、マタイの福音書の5章です。それではよろしくどうぞ。
◆マタイの福音書 5章4節
悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
あまりに有名な箇所ですけど、すごいと思うんですよ、これ。自分の欲求を満たすことを「幸い」だと、人は思いがちですけど、そうじゃなくて、満たされない時にこそ「幸い」があるのだという、このことば。
子供の頃、コーラを思う存分に飲むことが夢でした。好きなだけ、たらふくコーラを飲めたらどんなに幸せだろうと思ったものでした。それは、大人になったらあっさりかなう夢です。1.5リットルのペットボトルで十分に満たせる夢ですから。せいぜい3〜400円の夢です。しかし、その夢を叶えてみて思ったことは「え?コーラってもっとおいしくなかったっけ?」です。コーラを思う存分に飲んだ後よりも、コーラをなかなか自由には飲めない時の方が、よっぽどコーラをおいしく感じていたのでした。むしろコーラをたらふく飲んでみた後には、それ以前のあのコーラのおいしさを感じられなくなったとさえ思います。僕は思う存分のコーラを得たことで、コーラの幸せの真価を失ってしまったのかもしれません。
思う存分にコーラを飲めない人は幸いです。その人たちはコーラのおいしさを誰よりも知っているからです。
お腹の空いている人は幸いです。その人たちはおいしい食事ができるからです。
欲しいものが手に入らない人は幸いです。その人は最もそのものの価値を知っているのですから。
かなわぬ恋をしている人は幸いです。その人は、その恋する人の魅力を余すところなく知っているのですから。
権力のない人は幸いです。その人は権力の力強さを誰よりも知っているのですから。
・・・と、このように、いくらでも応用が効きます。聖書の中で、この箇所以上に色々と応用が効く箇所はありません。
何かが手に入らない時、自分の何かが及ばない時、夢に挫けた時、それらは普通に考えたら「不幸」ですけど、よく考えてみてください、よく感じてみてください。それは実は何よりの「幸い」だったり、少なくとも「幸いの源」だったりはします。すべてが満たされる人生に、幸せはないんです。満たされない点があるからこそ、人は幸せになれるんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。