現代人から2000年前への「上から目線」【聖書からよもやま話78】

主の御名をあがめます。

すっかり秋も深まって、今日から11月です。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、コリント人への手紙第一の15章です。それではよろしくどうぞ。


◆コリント人への手紙第一 15章12節

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


「イエス・キリストの復活」は、キリスト教の教義の中でも、多くの人にとって最も受け入れ難いものの一つです。「科学の発達したこの21世紀にまだそんなこと信じているの?」と思う方も少なくないかと思います。しかし、このことは科学の発達した現代だから受け入れ難いのではなく、2000年前の人たちにとっても受け入れ難いことだったんです。

聖書に記されているいくつもの奇跡、「天地創造」「ノアの方舟」「モーセの海割り」「処女懐胎」そして「復活」・・・と、たくさんありますが、現代の僕たちはそのどれもつい「昔の人は信じていたんだろうな」とか思ってしまいがちです。しかし、実はそのどれも、昔の人だって「いやいや、そんなことありえないよね」と思っていたんです。今も昔も、奇跡を信じることの難易度は変わらないんです。

「現代は、昔よりも合理的である」とついつい現代人の僕たちは思ってしまいがちですけど、それは昔の人たちからすれば「何その上から目線、感じ悪い!僕たちのことをバカにしてるの!?」ってところでしょう。昔の人たちだって数多の奇跡を抵抗なく信じたわけではないんです。現代も2000年前も、生きている人間の性質は変わらないんです。「時代が進めば進むほど、人類はより良い存在になる」というのは、近世の啓蒙主義以降の考え方で、いわば「進化論の作り出した幻想」です。昔の人は現代人よりサルに近かったのでしょうか、だから「神」なんて信じたのでしょうか。そんなことはないんです。

信仰を持つことは、今も昔も変わらず大変なことなんです。信仰の「難易度」は2000年間、変わってないんです。でも逆に言えば、だからこそ、信仰の価値は時代の流れを経ても失われることはないんです。信仰は時代によって風化するものではないんです。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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