皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の8篇です。それではよろしくどうぞ。
◆詩篇 8篇4〜5節
あなたの指のわざであるあなたの天
あなたが整えられた月や星をみるに
人とは何ものなのでしょう。
あなたが心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ダビデが神様を称え、そして感謝しています。「こんなにも美しく月や星に満たされた天をもつくったあなたほどの方が、こんなに小さな私を愛してくれるとはどうしてでしょう」と。
クリスチャンはよく「私たちは神様から愛されています」と言いますが、神様はどうして僕たちを愛してくださるのでしょう。天をも大地をもつくった神様からみたら、僕たち人間はあまりに小さくて、取るに足らないもののはずです。僕たちは、何か神様に愛される理由になるようなことをしたでしょうか。していないはずです。僕たち小さな人間が何をしたところで、天地を統べる神様にとってはあまりに小さなことですから。
誰か素敵な人から愛を告白された時、その人が素敵であればあるほど、「どうしてこんな素敵な人が、自分なんかを愛するのだろう?」なんて思ったりしませんか。妻や夫や恋人やパートナーに「僕のどこが好き?」「私のどこが好き?」なんて尋ねたり尋ねられたりしたことのある人も、きっと少なくないでしょう。
相手が神様でも人でも「どうして自分が愛されているのか」というのは、なんだかとても気になるものです。
でもきっと、その問いに答えはありません。愛は理由がないからこそ愛なんです。親が子を愛する時、「自分の子だから」なんてわざわざ理由を頭に入れて愛する人はいないでしょう。ただ無条件に湧き上がってくるものとして、愛するのではないでしょうか。恋人に「私のどこが好き?」と聞かれて、時には「笑顔」とか「優しいところ」とか「おしゃれなところ」とか具体的な何かを答えることもあるかもしれませんが、その答えはどれも、「笑顔じゃなくても好きだよな」とか「優しくない時も好きだけどね」とか「部屋着でダラダラしてる姿もまた捨てがたい」とか、どこか大きな欠けがあるはずです。愛は「理由」には収まりきらないんです。
愛に理由を問うのは愚問なんです。愛は無条件に湧いてくるもの、そしてただ受け取ればいいものです。反対に、愛に理由があるのなら、それは愛ではないんです。
もちろんたとえそれが答えのない「愚問」だとしても、夫婦や恋人やパートナー同士で、そんな甘いやりとりをすることは、嬉し恥ずかし仲良しな素敵時間でしょうから、大いに楽しんでいただければ良いと思います。そしてこのダビデのように神様とそんな嬉し恥ずかし仲良しな時間を持つことも、これまた大いに良い時間だと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。