私の説教。私の拠り所。 渡辺正男 【夕暮れに、なお光あり】

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20歳の時に一編の説教に出会い、生きる力を与えられました。その説教のことを述べてみます。

暗い顔をしている私を心配してか、友人が1冊の説教集を薦めてくれました。パウロ・ティリッヒの『地の基ふるい動く』(後藤眞訳、新教出版社)です。友の温かい心遣いが嬉しく、ていねいに読みました。特に「汝受け容れられたり」と題する説教は何度も繰り返し読みました。

こんな一節があります。「汝は受け容れられた。汝より偉大なるものに受け容れられた。……今は何事をもなさんと試みるな、何をも求めるな、ただ汝が受け容れられた事実を受け容れよ」

この「汝は偉大なるものに受け容れられた」という語りかけは、私の心深くに届きました。私を受容してくれる方に信頼して生きてみよう、と思いました。そして、洗礼を受けたのです。以来、心の深い所に拠り所を得たように思っています。

やがて牧師の道に進み、礼拝の説教を生涯の務めとして歩んできました。顧みると、説教の傾向は、私なりに受け止めた「受容の福音」に力点が置かれ、応答する行動を促す語りかけは弱かったように思います。一編の説教との出会いの影響が、私の信仰や生き方に深く及んでいると思わずにおれません。

けれど、年を重ねてから「受容の福音」を強調する福音理解は十分なのか、偏りはないのかと、時に思い迷うことがあるのです。深井智朗著『パウル・ティリヒ――「多く赦された者」の神学』(岩波書店)を読みました。その中に、説教「汝受け容れられたり」に言及して、その説教原稿の結びに、日付と共に「私自身のために」と記されている、とありました。生活に乱れのあったティリヒは、60歳の誕生日に、その説教を「自分自身のために」語ったのですね。

私も、このアドヴェントの今、迷いに抗して、あらためて「受容の福音」に拠って立つと心定めたいと思っています。

その福音理解は十分なのか、と問われるでしょう。その問いは分かります。私自身の問いでもありますから。けれど、私たちの福音理解は完全ではなくて、それぞれに、福音の断面に出会って、その福音に支えられているのではないか――と、そういう思いを抱いているのです。

皆さんの拠って立つ福音はどうでしょう。

 「私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです」(コリントの信徒への手紙一 13章9節)

わたなべ・まさお 1937年甲府市生まれ。国際基督教大学中退。農村伝道神学校、南インド合同神学大学卒業。プリンストン神学校修了。農村伝道神学校教師、日本基督教団玉川教会函館教会、国分寺教会、青森戸山教会、南房教会の牧師を経て、2009年引退。以来、ハンセン病療養所多磨全生園の秋津教会と引退牧師夫妻のホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝説教を定期的に担当している。著書に『新たな旅立ちに向かう』『祈り――こころを高くあげよう』(いずれも日本キリスト教団出版局)、『老いて聖書に聴く』(キリスト新聞社)、『旅装を整える――渡辺正男説教集』(私家版)ほか。

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