皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 ゼカリヤ書の10章です。それではよろしくどうぞ。
◆ゼカリヤ書 10章2節
テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。
夢見るものは意味のないことを語り、空しい慰めを与える。
それゆえ、人々は羊のようにさまよい、
羊飼いがいないので苦しむ。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
現代ほど、人々が羊のようにさまよって、羊飼い、すなわち良き指導者を求めて右往左往して苦しんでいる時代も、なかなか他にないのではないかと思います。
そんな時代の理由として、聖書は「占い師」とか「夢見る者」を挙げています。占いは確かに、時には心を慰めてくれることもあるかもしれません。しかし、それには根拠がありません。あたるも八卦あたらぬも八卦、とは昔から言いますが、あたったときだけ「すごい、あたった!」と喜び、あたらなければ気にもとめずにそのまま受け流す、そんなものです。「夢見る者」とは、夢を追いかけて頑張る人を指すわけでもちろんありません。そうではなくて、夢のような根拠のないことを語って、人を扇動しようとするひとのことです。そんな人も、この世の中にはたくさんいます。ちょうどこれから衆議院選挙が始まりますから、各候補者の語ることが、根拠のある現実的な話なのか、根拠のない「夢見る者」の話なのか、ちゃんと見極めなくてはいけません。夢を語るだけなら誰でもできます。しかし、ただ語るだけの夢なら意味がないと聖書は言っています。
ではこの、最初に出てくる「テラフィム」とはなんでしょう。これは異教の偶像です。どうやら当時のイスラエルには、これを使って占いのようなことをする人がたくさんいたようです。これは当時の一種の流行ですから、これは現代に直せば、「一時の流行」と言い直すことができるかもしれません。人は流行に踊るものです。しかし、それに振り回されても、結局人は苦しむだけだと聖書は2500年以上も前から言っているんです。
現代社会は、しかし占いも夢物語も流行も、空しい物だとすでに喝破しました。そこで新しい基準として、「自分」を提示しました。しかしそれさえも、実は空しいものであると気づいている人は実はすでに少なくありません。「自分を信じろ」って、よく言われますけど、少なくとも僕は、自分がどれほど弱くて頼りないか知っています。信じろと言われても「いやいや、他の何よりも信じるに足りないものですよ自分なんて」とか思ってしまいます。僕以外にもそんな人は実は多いのではないでしょうか。自分を信じられるなら苦労はしないよ、と。まして占いや夢物語や流行を信じられるなら苦労はしないよ、と。
そんな方、あなただけではないですよ。
そんなわけで僕は、聖書と神様を信じることにしたんです。そんな生き方だってありです。「聖書を信じるのも、占いを信じるのも大差ないだろ!」って思う人もいるかもしれません。しかし、聖書は歴史にも思想にも大いなる影響を与えました。占いは歴史に介入しましたか?占いも、夢物語も、流行も、歴史の流れに介入することはできません。しかし聖書は2500年以上も、常に歴史に介入し続けているんです。
人間は誰しも、人類の歴史の一部です。ならば歴史に介入し続ける基準と、歴史に介入できない基準と、どちらを重視すべきでしょう。
ええ、そんなわけで、クリスチャンは占いや流行にあんまり興味を示さないんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。