哲学の歴史そのものにとって、決定的な意味を持つ一節
〈善〉をすべてのものが存在することの根源として捉えようとしたプラトンの思索は、哲学の歴史において決定的な重要性を持つものでした。
「『認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、〈善〉によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない。ただし、〈善〉は実在とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが……。』」
いま引用した一節は形而上学なる営みの運命を考える上でも、決して無視することのできないものであると言うことができそうです。今回の記事では、この点をめぐって考えてみることにします。
〈善〉は、「存在の彼方」にそびえ立つ
『国家』のこの箇所をその重要性に鑑みて、改めて掲げておくことにします。
『国家』509B:
「『認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、〈善〉によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない。ただし、〈善〉は実在とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが……。』」
〈善〉こそが「存在の根源」にほかならないという論点については、前回までの記事を通して、すでに見てきました。ここではその後に語られている、「存在の彼方に」(エペケイナ・テース・ウーシアース)という表現に注目しておくことにします。
天と地にあるすべてのものは、根源としての〈善〉から存在を与えられている。プラトン自身はいみじくも、『国家』においてはこれ以上のことを詳細には論じていませんが(この沈黙が、多分に意図的なものであったことは間違いなさそうである)、彼自身の叙述から察すると、彼は私たち人間や動物、植物をも含む自然の世界のみならず、その自然の範型(モデル)となっている〈イデア〉の世界をも超えたものとして、〈善〉を捉えていたもののようです。プラトンより後の時代に続いた、新プラトン主義やキリスト教の哲学は、そうした彼のヴィジョンを深化させつつ、さらに突き詰めてゆくという形で受け継いでゆきました。
〈善〉はいわばそうした根源の中の根源に位置するのですから、まさしくすべての存在者を超えており、従って「存在の彼方に」そびえ立っているということになります。さらにもう少し踏み込んで言うならば、このことは、〈善〉とは私たち人間が普通に「存在する」とか「善である」とか「一である」という仕方で言葉で言い表すことのできる領域をはるかに超えているという意味で、「あらゆる『本質』を超えている」、あるいは「『存在すること』そのものを超えている」とも言わざるをえないのではないか。
「過剰であることにおいてまさに、〈善〉は存在のかなたにある。[…]いっさいの本質もしくは存在することを超えて〈善〉の〈トポス〉があるというのは、もっとも深遠な教え、決定的な教えである。」これは古代や中世の哲学者の言葉ではなく、1906年に生まれ、1995年まで存命していた哲学者である、エマニュエル・レヴィナスの言葉です。彼の哲学にとって、プラトンの語る〈善〉のあり方は、そこから受け継いだものがなければ彼自身の哲学の核心がまったく成り立たなくなるというくらいに重要なものでしたが、「存在の彼方に」というこの表現は、2023年の現在において哲学している私たちに対しても未だなお謎をかけ続けている、〈根源〉へ向かってゆくことへの指示を宿す言葉にほかならないと言えるのではないか。
「生きることの意味が、『存在の彼方』から告げ知らされるとすれば……。」
論点:
生きることの意味とは、その本質からして「存在の彼方」から啓示されるものであるとしたらどうだろうか。
すでに一度触れたように、思索者としてのレヴィナスは〈善〉の見出される領域、この「存在の彼方」を、主体であるわたしが〈他者〉に出会う領域に重ね合わせています。〈他者〉は、わたしの意識を超え出たところに、わたしの思考をどこまでもあふれ出てゆくという仕方で存在している。私たち人間が〈他者〉である隣人たちと日常において関わることは、本当はそのような「無限なるものの生起」という驚くべき出来事を内包しているのではないだろうか。わたしが「あなた」と呼ぶほかない他者と対面し、語り合うという驚異が実現するとき、そこで問題になっているのはまさしくプラトンが語っていたあの「彼方」に他ならないのだとしたら、どうだろうか。
「存在の彼方」に対するこのような解釈はおそらく、事柄そのものの本質に深く触れています。というのも、レヴィナスのこの解釈は、〈善〉そのものを絶対他者である〈神〉に重ね合わせつつ思索していったプラトン以降の哲学の歴史の根本動向と、奥深いところで響き合うものだからです。他の誰でもない一人の人間であるところのわたしは、実存のリミットにおいて、まさしく「存在の彼方」としか名づけえないような意識の臨界点、「外部」と呼ばざるをえないものにわたしが接するその極点において、はじめて「あなた」と呼びかけうるような他者に向き合うことになるのではないか。このような問いかけは哲学する人間に対して、2023年の現在においてもなおほとんど解き明かされていない、未知の領域の存在を指し示すものなのではないかと思われます。
このような解釈は、現代という時代にあってアウグスティヌスの『告白』を読み解こうとしている私たちにとっても、決して無視することのできないものであると言えるのではないか。なぜなら、「生きることの意味、それは『彼方』からこそ告げ知らされる」というのが、この『告白』なる書物が依って立っている根本的な立場にほかならないと思われるからです。私たちが、私たち自身の意識という閉域のうちに出口のない仕方で閉じ込められている限り、私たちはどこかの時点で必ず「私たちは生まれてくるべきではなかった」という問いかけのうちで窒息させられることになるのではないか。反対に、私たちが「存在の彼方」に、私たちの意識をどこまでもあふれ出てゆく「外部」に関わることのうちでこそ、生きることの意味のような何物かもまたその「彼方」の方から告げ知らされ、閃き出てくることになるのだとしたら、どうだろうか。探求する人間としてのアウグスティヌスが彷徨の果てに見出すことになった〈愛〉とは、その本質からしてこの「存在の超絶」においてのみ出会いうるものなのではないだろうか。プラトンによって語られた「存在の彼方」という表現の重要性に鑑みるならば、以上のような見通しをもって『告白』と向き合うことは、そのまま2023年の現在における「哲学の現在」に向き合うことと重なり合うと言っても、それほど言い過ぎにはならないのではないかと思われます。
おわりに
『国家』の決定的な箇所において「何という驚くべき超越だろうか!」と語られたこの「彼方」は哲学の歴史において、果たして十分に思索しぬかれたのだろうか。それとも、この「彼方」は哲学の営みそのものが向き合うべき運命として、今もなお哲学する人間の前にそびえ立ち続けているのだろうか。私たちとしては以上のような事情を念頭に起きつつ、プラトンのテクストの検討には今回で一区切りをつけて、次回からは新プラトン主義の哲学へ、そして、アウグスティヌスの『告白』の方へと進んでゆくことにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]