永遠で満たしてくださるお方に向かって
2016年10月16日 年間第29主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
気を落とさずに、絶えず祈らなければならない
ルカ18:1~8
イエスさまは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、たとえを話されました。
この「祈る」という言葉は、元のギリシア語では「プロスエウコマイ」という単語が使われています。「プロス」とは「何々に向かって」、「エウコマイ」は「祈る」「願う」「求める」という意味の言葉です。
ですから、「祈る」という言葉の意味は、私たちが本当に向かうべき方に向かって祈り、願い、求めるという、向かうべきお方との関係だということです。
ところが私たちは日々、目に見える世界に生きながら、自分の思ったとおりにならなかったり、思いがけないことに出会ったりする時、気を落とすことがあるかもしれません。「こんなに祈っていても無駄じゃないか」、「本当に大切にしなければならないのは、やっぱり目に見えることだ」と、祈りをやめてしまうことがあるかもしれません。でもイエスさまは、「それは違う。気を落とさないで、いつも祈らなければならない」と教えておられるのです。
私たちは祈りをやめると、目に見えるすべてのものをお創(つく)りになった方との関係が死んでしまい、目に見えるものだけがすべてという気だるさの中で生きなければなりません。でもそこは、私たちが本当につながるべきところではありません。
私たちの「今日という日の今」というこの一瞬を、「永遠」といういのちの重さと輝きで充満させてくださるお方との関わりの中で生きなければならないのだよと教えるために、イエスさまはたとえを話されました。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」(ルカ18:2~3)
これは1回だけではなく、来る日も来る日も、しつこく言ってきたということです。
裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」人です(2節)。人から何を言われようが、どう思われようが、全然関係ない。神なんか畏れないし、人にどんな悪口を言われようが関係ない。いわば「自分が神さまみたいな人」だったのでしょう。
ところが、やもめはしつこく言ってきた。裁判官はしばらくの間は取り合おうとしなかったのですが、後に考えました。
「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(4~5節)
イエスは言われました。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」(6節)
自己中心の極致、人のことなんかいっさい顧みない者であっても、執拗(しつよう)な求めによって裁きをしてもらうことができた。
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速(すみ)やかに裁いてくださる」(7~8節)
こう言っておられるのです。
今日の短い箇所の中に「裁き」という言葉が4つ出てきました。「相手を裁いて、わたしを守ってください」(3節)。「彼女のために裁判をしてやろう」(5節)、「裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(7節)、「神は速やかに裁いてくださる」(8節)。
この「裁き」という言葉は、「権利を守る」、「権利を得させる」という意味の言葉です。「願い求める者に神は速やかに権利を得させてくださる」とおっしゃっているのです。
ところで、願い求める者が得る権利、守られる権利とは何でしょうか。私は、神のいのちの「永遠」だと思います。私たちが本当に結ばれなければならないのは、「永遠」という神さまのいのちそのものです。
私たちは目に見える世界に生きています。その中で何か疲れてしまうこともあるでしょう。でも私たちは、その出来事の奥に働かれている神さまにつないでいただいて生きなければなりません。
今日、がっかりしたことがあったかもしれません。落胆したことがあったかもしれません。失敗したことがあったかもしれません。
でも、「今日の日の今」、天地万物をお創りになられたお方が私たちの中にご自分の新しさを創ってくださいます。だから、神さまのいのちの新しさに結ばれて生きる者になるように願い求める叫びを、神さまは聞いてくださいます。
そして神さまは、私たちに最も必要なもの、永遠のいのちとの出会いを今日、創ってくださいます。速やかに創ってくださいます。いま創ってくださいます。
人間のいのちは永遠。これこそ、私たちが守られなければならない最大の権利であることを忘れてはならないと思います。