差別語を避けただけで差別はなくならない 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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「配慮」と称して差別の逆を行っていることがあります。タブーとされる言葉が多くなりました。「びっこ」「ちんば」「めくら」「つんぼ」「おし」「きちがい」などです。また、「足切り」「片手落ち」「盲目的」などの言葉も避けられるようになっています。しかし、それだけが差別をなくすことにつながるわけではないと感じます。世の中にはいろいろな人がいるのです。

聖書の翻訳でもそうなのです。「らい病」をはじめ、「乞食」も避けられるようになった言葉です。でも、まさにそのような差別的な病気や状態に置かれていたから、イエスによって癒やされたのではないでしょうか。本来、聖書が言いたかったことがちゃんと伝わらなくなっている気もします。

私が冒頭、「差別用語」を連発したとき、ぎょっとなさいましたか? 実は、発達障害など「見えない障害」には、こういう配慮はほとんどないのです。あえていえば、昔は、私みたいな人間は「バカ」と言われていました。もし視覚障害の人を「目の不自由な人」と言うなら、私みたいな人間は「頭の不自由な人」と言わねばならないでしょう。しかし、なんだかその言いかたのほうがバカにされている気がするぞ!

もしもイエスが、私の発達障害を癒やしてくれるとしたらどうだろうか。私は人並みのことが人並みにできるようになる! これは、うれしいようで実はうれしくないものです。なぜなら、発達障害でない私は、もはや私ではないからです。この「障害」は、もはや私のアイデンティティの一部をなしています。私がこうでなくなってしまったら、それはもう私ではないのです。どれだけ生きづらくても、私は私でありたい。

「お前には『らい病』の人の苦しみがわからないだろう!」とおっしゃいますか? でも、そうしたらあなたにも、私のこの発達障害と二次障害による言葉にならない苦しみはわからないでしょう。だから言葉の上だけで「差別」を避けたようでも、あまり意味がないのです。私に、車いすの生徒さんへの配慮が足りないと叱責してきた部長もいます。しかし彼は、「車いすの人に対して気がきかない」という私の発達障害的な特性に「配慮」がまったくなかったのです。彼も私も「障害者」なのに!

「足の不自由な人」と同様に、私のことを「頭の不自由な人」とお呼びください。でも、私は勉強ができるし、発想はむしろ人より自由です。だから、なにをもって「不自由」というのかも明らかでないわけです。でも、人並みのことがことごとくできない私は、皆さんがこの記事で読み取るよりはるかに困っています。おそらく皆さんの職場に私がいたとしたら、きっと軽蔑と叱責の対象になっているでしょう。どれだけ私が「できない」か、文章だけではなかなか伝わらないのです。

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腹ぺこ

腹ぺこ

発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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