「クリスチャンは偉い」という特権意識 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

 

 十数年前、あるキリスト教学校の教員をしていたころ、教会の昼食会で一緒の席になった、ある高齢の男性との会話です。私は忙しくてなかなか教会に行けない教会員でした。その男性は私のことを「見慣れない若者」と認識しておられ、完全に私をノンクリスチャン(非信者)だと思い込んでおられるようでした。私がそのキリスト教学校の教員であることを伝えると、その男性は「そうか、あの学校もノンクリスチャンの教員を迎えるようになったのか」と言っていました。

 その男性は二重に間違っています。一つは、「キリスト教学校の教員はすべてクリスチャンだと思っている」こと、もう一つは、「目の前にいる私を、ノンクリスチャンだと思っている」ことです。とにかく何を話しても、「目の前にいる私が実は教会員である」ということをまったく認識できないようでした。私が「3年くらい通っていますが(なかなか来られないので、教会員さんの顔と名前が)分からなくて……」と言うと、その男性はここぞとばかりに言いました。「まあ、4年も通えば分かってきますよ。『キリストの教え』というものがね!」。とっくに亡くなった方ですが、そういう認識の教会員はある意味で典型的だったと思います。

 どうも、教会というところの、いろいろな場面での「初めて来た人への不親切」とか「初めて来た人への失礼な上から目線」とかの源泉を探ってみると、根本に「洗礼を受けているわれわれクリスチャンは偉い」という無自覚的な「特権意識」があるように思われるのです。それは、「洗礼を受けているわれわれは選ばれている。われわれは天国に行ける」と思っているということなのか、「世の中は間違っていて、われわれ教会の教えていることだけが正しい。われわれは真理を知っている」という思い込みなのか、よく分かりませんが、とにかくそういう「選民思想」のようなものが無自覚的にあって、それが「教会のチラシの分かりにくさ」とか「初めて教会へ来た人への一見親切心に見える傲慢さ」とか「教会のホームぺージに書いてある文言の不適切さ」などの、表面的なことに現れているようにも思えます。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という『歎異抄』の有名な言葉を私が応用した言葉があります。「クリスチャンでさえ救われるのだから、ましてクリスチャンでない人が救われるのは当然ではないか」。私自身、このことは忘れがちです。「クリスチャンは偉い」という思い込みをなるべく捨て去ることができるようになりたいものです。

腹ぺこ

腹ぺこ

発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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