私の出身教会には「教友(きょうゆう)」という言葉(概念)がありました。「教会の友だち」もしくは、「教会が友だち」という人を指す用語で、洗礼を受ける(=はっきりキリスト教の信者になる)のにはまだちょっと抵抗がある人でも、気軽になれるものでした。その他、他の教会員で、わけあってその教会にいる人なども、よく教友になっていました。
「教友式」というのはなかったと思いますが、礼拝の最後に「〇〇さんは教友になります。おめでとうございます!」と言われて拍手を受けるくらいのことはありました。洗礼を受けたときに記念品がもらえるのと同様、教友になっても記念品がもらえます。私は、2000年のイースターで教友になりました。記念品はいまでも使っている賛美歌集です。
牧師さんが「教友になりませんか?」と言ってきました。その教会は、何年通っていても「そろそろ洗礼を受けませんか?」とは決して言わない教会でしたが、教友は、誘うほうも気楽なのです。そして、教友になれば、教会員名簿ももらえます。最後に教友の名簿も載っています(当時の話。個人情報保護の時代に、どう変わったのかは知りません)。よく観察していると、教友になった人の多くは、半年から1年で洗礼を受けるのでした。私自身、その年のクリスマスには洗礼を受けています。それが目的で「教友」というシステムがあるわけではないでしょうが、「どこまでが教会員かあいまい」という教会の具体例だったと思わされます。
洗礼を受けていないから、他宗教の信者でも「教友」になれます。実際、カトリックの幼児洗礼を受けているものの、本当はそのプロテスタント教会の会員になりたい人が教友になっているケースも知っています。その教会は、聖餐式(キリストの体であるパンを食べる儀式)も、信者でなくても受けられる教会でした。信者であるか否かは、それほど大切ではないのです。私も、だいぶ教会になじんでから洗礼を受けましたので、受けたときは「あれっ、まだ洗礼を受けていなかったんだっけ?」と多くの人に言われました。
信者であるか否か、教会員であるか否かがはっきりしない制度、それが「教友」でした。他にもこういうなんらかの会員制をとっている教会は知っています。「洗礼はまだちょっと」という人でも簡単に輪に加われるシステム。人はいきなり、ある日から信者になるわけではありません。だんだんなるのです。このシステム、とてもいいので、みなさんの教会でも取り入れてみられることをお勧めします。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。
わからないことは人に聞く 【発達障害クリスチャンのつぶやき】