「ミラノの見神」体験へ:『告白』への帰還
私たちはプラトンからプロティノスを経て、アウグスティヌスの『告白』へと戻ってゆく準備を整え終えました。プラトン派の書物に触れることを通して内面を深化させていった彼は、彼自身にとっての「出会うべきもの」を見出だすことになります。
「しかし、主よ、『あなたは永遠にとどまりながらも、』『永遠にわたしたちに怒られることはない』。じっさい、あなたは、塵と灰にすぎないわたしたちをあわれんで、わたしの醜い姿をあなたの御目の前で造りなおすことを喜ばれたのである。そしてあなたは内心の針のようなものでわたしをかりたてて、わたしが内的な目であなたを確かに見るまではわたしを安んじさせなかった……。」
「内心の針」 のようなものに駆り立てるようにして進んでいったアウグスティヌスの探求は「ミラノの見神」と呼ばれる体験に至って、いよいよ後戻りすることのできない方向へと突き進んでゆくことになります。今回の記事では、この体験が意味するものについて考えてみることにします。
「ミラノの見神」とは:新プラトン主義との出会いが開いたもの
論点:
アウグスティヌスは31歳のとき、『告白』第7巻で語られるところの、いわゆる「ミラノの見神」を経験することになる。この体験は彼がその後の真理の探求を進めてゆく上でも、決定的な意味を持つものであった。
今回の記事ではその詳しい内容にまで踏み込むことは難しそうですが、「ミラノの見神」とは『告白』の叙述によれば、探求する人間としてのアウグスティヌスが黙想のうちで目に見えない「不変の光」によって照らされ、次いで「彼方」からの声を聞くという体験にほかなりませんでした。このような体験が「証言」という形をとって語られていることについて、現代の人間がどのようにそれを受け取ればよいのかという点については、これから少しずつ考えてゆくこととして、まずはこの出来事をめぐる諸事情を整理しておくことにします。
まず注目しておくべきことは、この「ミラノの見神」はアウグスティヌスが新プラトン主義の書物を読みふけった上で、その読書の経験に導かれるようにして起こったものであったという点です。すなわち、彼の探求は、先駆者であったプロティノスが語っていたところの〈一者〉の存在を自分自身でも限りなくリアルなものとして感じるようになり、「わたしが生きることの意味、それは『存在の彼方』に見出されるところの〈善〉に、神においてこそ見出されるのではないか」と考えずにはいられなくなるところにまで来ていました。プラトンやプロティノスによって行われた思索の探求は彼にとって、単なる理屈の上での抽象的な議論にとどまることなく、自らの実存そのものを賭けて追い求めてゆくべきものと思われるようになっていたといえます。
従って、この経験は書物を読むことによって呼び求められ、呼び起こされたものであったとしても、究極的には読書の枠を超え出るものにほかなりませんでした。
「わたしはこれらの書物から自分自身にたちかえり、あなたに導かれてわたしの心の最奥に進んでいった。わたしがそうすることができたのは、『あなたがわたしの救い主になられた』からである……。」ある意味で、この「ミラノの見神」は、アウグスティヌスがそれまでに読んできたいかなる書物にも及ぶことのない深みにおいて、彼の実存そのものを変容させたと言うこともできるのではないか。これ以後、プロティノスの哲学に続いてパウロ書簡に出会うことを通して、彼にとっての唯一の「出会うべきもの」の存在をさらに深く知るに至るようになるまで、アウグスティヌスの探求はますます熱を帯びてゆくようになります。
実存の深淵から「存在の超絶」へ
論点:
「存在の彼方」から呼びかけられ、その呼びかけのうちで、ただ「あなた」と言い表すほかないような〈他者〉のリアリティに触れるような経験が生起するということが、人間の生には起こりうるのではないだろうか。
「彼方」という場所において出会われる〈他者〉はその本質からして、主体であるわたしの意識を超え出たところに存在しています。そして、このことはおそらく、絶対他者であるところの「神」には必ずしも限定されないのではないか。私たちが、私たち自身の日常において出会う数多くの他者たち、日々関わり続けている隣人たちもまた、思考と認識の決して及ばないところ、主体であるわたしの思考を絶えずあふれ出してゆく「彼方」において、この「存在の超絶」においてこそ私たちと関わり続けているのではないだろうか。
私たちは日常においては、この「存在の超絶」をそれとして意識することはほとんどありません。しかし、それとして認識されようとされまいと、「超絶」であるところの他者たちは私たちの意識の彼方において「超絶」としてとどまり続けています。教育や愛の経験といった、実存の深度が極限に達するような関係において、あるいは、親しい人との間で行われる日々のコミュニケーションのきしみに苦しんだり、隣人たちの語る言葉や、映像や音声を通して目に飛び込んでくるニュースに触れつつ、見知らぬ〈他者〉たちのあり方にわずかではあっても近づこうとするような思考の努力を重ねたりすることのうちで、この「存在の超絶」のリアリティはかろうじて垣間見られることになります。
アウグスティヌスの『告白』に立ち戻るならば、「ミラノの見神」の体験は彼にとって、それまでは馴染みのなかったこの「存在の彼方」から呼びかけられ、この「彼方」のリアリティに自らの実存そのものが深く揺り動かされ、そこへと覚醒させられるような出来事にほかならなかったと言えるのではないだろうか。
「わたしはこれらの書物から自分自身にたちかえり、あなたに導かれてわたしの心の最奥に進んでいった。わたしがそうすることができたのは、『あなたがわたしの救い主になられた』からである。」アウグスティヌスは自らの探求の道行きにおいて、「わたしは確かに『あなた』の存在に触れた」と言わざるをえないような〈他者〉に出会いました。実存する一人の人間であるところのわたしの生は、わたし自身の意識という閉域のうちで避けようもなく窒息させられ、そのことのうちで「わたしは生まれてくるべきではなかったのではないか」という問いかけに直面せざるをえないのか(実存の深淵、あるいは世界内存在そのもののリミットとしての反出生主義)。それとも、わたしはこの問いかけのただ中で、それとは異なった生のあり方を、一つの全き「別の仕方における実存」を求め続けることのうちで、「彼方」なる圏域の方から呼び出され、そこへと赴きながら、かろうじて「あなた」と呼び返すほかないような他者に出会うのだろうか(存在の超絶)。2023年の現在において『告白』を読む私たちは、「ミラノの見神」の内実に迫ろうとする試みを通して、そのような問いかけにも向き合うことになると言えるのかもしれません。
おわりに
「わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求める」と信仰の書は語っていますが、アウグスティヌスという一人の人間が経験した魂の渇きについて証言する『告白』という書物の言葉にいま向き合うことは、私たちが私たち自身に与えられている「哲学の現在」を根底のところから問い直すことにも繋がっているのではないかと思われます。こうしことをも念頭に置きつつ、次回以降の記事では、この「ミラノの見神」の内実へと踏み込んで考えてみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]