完全に公正であることは人間にはできません【聖書からよもやま話291】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、詩篇の63篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 58篇1節

力ある者たちよ おまえたちは本当に義を語り
人の子らを公正にさばくことができるのか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

世では人が人を評価します。たとえば上司は部下を評価し、教師は生徒を評価し、世論は政治家を評価します。その部下や生徒や政治家もまた、上司や教師や世論を評価したりします。この社会は人間同士、評価のしあい、評価合戦でなりたっているとさえ言えます。

人が人を評価する時、その基準は公正でなくてはなりません。上司や教師がえこひいきで部下や生徒を評価したらいけません。総理大臣が各大臣を任命するときの評価も公正でなければいけません。まして、裁判官が被告人を評価するならなおさらです。

しかし、聖書は問います。「君たちは本当に公正であることができるのか?」と。

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UnsplashTingey Injury Law Firmが撮影した写真

多くの人が「私の意見は公正だ」と主張しますが、人が人である限り、本当にとことんまで公正であることは不可能であるように思います。完全に自分の感情や、立場や、しがらみから解放されて公正であるということは、むしろもしかしたら「人間性の欠損」ということにさえなるかもしれません。それはいわゆるサイコパスに近いかもしれません。

ですから人間はまず「公正な自分」から思考や評価をスタートさせるのではなく、「公正ではない自分」を土台として思考や評価をしなければならないのではないかと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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