主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の13章です。よろしくどうぞ。
サムエル記第二 13章15節
アムノンは、激しい憎しみにかられて、彼女を嫌った。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った。「起きて、出て行け。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
アムノンという人が、タマルという女性に恋をしました。アムノンは仮病を使って「看病して欲しい」とタマルを家に呼び、そして力づくで思いを遂げてしまいました。しかしその翌朝、アムノンは激しく彼女を憎むようになり「早く家から出て行け!」と彼女を追い出しました。なんとも身勝手な話です。力づくで思いを遂げておいて、翌朝になったら「お前なんか嫌いだ、出て行け!」と言うのですから。
しかしここにはアムノンの恋心が消えてしまったとは書いてありません。恋心よりも大きな憎しみが生じたと書いてあります。アムノンはタマルを力づくで押し倒しても、心までは開けなかったことが不満だったのかもしれません。まぁ当たり前です。こんなやり方をしたら実る恋だって実りません。たとえタマルがアムノンを好いていたとしても、百年の恋も冷めることでしょう。
恋が実らなかった時、その恋する相手を憎く思うようになるというのは、現代でもよくあることではないでしょうか。もちろん、これは大いに人によるところはあるでしょうけれど。「可愛さ余って憎さ百倍」なんて言葉もあります。
想いの届かない相手をずっと愛し続けるよりも、憎んでしまった方が心が楽だという気持ちは分かります。本当は恋心をきれいに消してしまえれば一番楽なのでしょうけど、恋心はそう簡単に消えるものではありませんから、だったら憎しみで塗りつぶしてしまえば、これ以上傷つかなくてすむ、ということだと思います。
しかし、一度でも愛した相手を憎んでしまうというのはあまりにもったいない気がします。一度愛したなら、ずっと愛していたいものです。それは確かに辛いことです。しかし愛というのは「その人のために辛い思いをしてもかまわない」ということです。実らないことで愛が憎しみに変わってしまうなら、それはきっと本当の愛ではなかったのだろうと思います。もともとアムノンはタマルを本当に愛してはいなかったのでしょう。イエス様はご自身の愛が届かなくても、つまり人がご自身を信じないとしても、その人を憎むことは決してありません。それでも愛し続けてくださいます。想い続けてくださいます。それも「この人のためなら十字架についたってかまわない」というほどに。「届かないのに愛し続けるのは辛いからもうやめよう」なんて決して言いません。それが本当の愛です。
この後の記述を読むと、タマルは、アムノンがちゃんとその後も自分を愛してくれるなら彼を許す気持ちを持っていたように読み取れます。しかしアムノンは彼女を憎んで追い出しました。その結果としてアムノンはタマルの兄であるアブサロムに憎まれ、やがて殺されることになります。理不尽な憎しみが、身を滅ぼす結果を招いたんです。
たとえ想いが届かなくても、せっかく愛した人を憎んではいけません。恋心を憎しみで塗りつぶしてはいけません。そしてもちろん、乱暴なんかするのは言語道断、絶対にいけません。恋が燃え上がる時、人は神様を忘れがちです。神様を忘れると理不尽なことをしがちです。恋が燃え上がる時こそ、神様を忘れないように普段以上に強く意識することが大切かと思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。