主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 イザヤ書の22章です。それではよろしくどうぞ。
◆イザヤ書 22章12〜13節
その日、万軍の神、主は呼びかけられた。
「泣いて悲しみ、頭を剃って荒布をまとえ。」
しかし、なんとおまえたちは浮かれ楽しみ、
牛を殺し、羊を屠り、
肉を食べ、ぶどう酒を飲んで言っている。
「飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ」と。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「頭を剃って粗布をまとえ」というのは「悔い改めなさい」つまり「生活や心がけを改めなさい」という意味です。エルサレムの町は敵国の侵攻にさらされて窮地に陥っていました。そこで神様は「君たち、まずは生活と心がけを改めて気を引き締めなくてはいけないよ」と言ったのですが、民は「そんなことより、明日死ぬかも知れないんだから今のうちに楽しもうぜ!うぇーい!」とどんちゃん騒ぎを始めました。
人間は「悔い改めよ」と言われるよりも「ありのままで」と言われた方が気が楽です。「心がけを直しなさい」と言われるよりも「自分に素直に」と言われた方が気が楽です。耳の痛い言葉よりも、耳に優しい言葉を欲しがります。たしかに耳に優しい言葉も時には必要です。「ありのまま」でいることも「自分に素直に」いることも時には大切です。しかしそれはいつもではありません。神様が「悔い改めよ」と言う時には「自分に素直に」ではなく「神様に素直に」なる必要があります。
人間は自分自身の心によって「ありのまま」を失ってしまっています。ですから神様が「悔い改めよ」という時、それは「君は今ありのままではない!ちゃんとありのままであるために、心を入れ替えよ」と言っているのかもしれません。戦を前にどんちゃん騒ぎをした人たちは、自分では「自分のありのままの望みは死ぬ前に今日を楽しく過ごすことだ」と思っていたのでしょう。しかし彼らは本当にそれを望んでいたでしょうか。人間だったら本当は本能的に「明日も生きたい」と望むのではないでしょうか。だとしたらその望みのためにすべきことはどんちゃん騒ぎではなく、気を引き締めることです。彼らは「楽しみたい」という小さな「ありのまま」に気を取られて、「生きたい」という大きな「ありのまま」を見失っていたんです。
同じように現代の僕たちも本当の「ありのまま」を見失ってしまうことがあるのではないでしょうか。僕が思っている「ありのまま」は本当に「ありのまま」でしょうか。目の前の都合や欲求に邪魔されて、「これが僕のありのままなんだ」と自分に言い聞かせてはいないでしょうか。考えてみればだんだん分からなくもなってきます。でも神様はちゃんと僕の本当の「ありのまま」を知っていますし、そこに導いてくれます。自分の欲求に従うことばかりが「自分に素直」ではありません。居心地の良い場所に留まっていることばかりが「ありのまま」でもありません。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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