主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 サムエル記第一の22章です。それではよろしくどうぞ。
◆サムエル記第一 22章34〜35節
主は、私の足を雄鹿のようにし、
高い所に立たせてくださいます。
戦いのために私の手を鍛え、
腕が青銅の弓も引けるようにされます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
スポーツジムには「痩せたい!」とか「たくましくなりたい!」という方がたくさんいます。そこにいるほとんどの人は痩せるための努力、たくましくなるための努力に力を尽くしています。自分の力で、自分の理想の身体を手に入れようとしています。
しかしダビデは「私の足を鹿のようにしたのも、強弓を引けるほどに腕を鍛えてくださったのも、神様です」と言っています。ダビデは決して「私は自分の努力で私の理想の身体を手に入れました!」とは言わないんです。
もちろんダビデもきっとちゃんと日々そのための時間を確保して鍛錬に励んだことと思います。ただ何もせず寝ていただけで立派な身体を得たわけではないと思います。しかしその鍛錬によって得られた結果を「私の努力の結果だ」とは言わず「神様がしてくださった」と言います。
これはたとえばダイエットで良い結果が得られた時に「インストラクターさんの指導のおかげです!」と感謝するようなものかと思います。確かにインストラクターさんがいくら優秀でも、本人が何もしなければ結果を得ることはできません。実際に頑張ったのは本人のはずです。でも、本人のやる気を引き出して日々の鍛錬や節制を促し、挫折や堕落の可能性を下げるのもインストラクターさんの仕事のうちです。
ダビデがここで神様を称えているのは「私はたしかに弛まぬ鍛錬をした。でもその意志を遂げさせてくださったのも、そもそもその意志を与えてくださったのも神様です」ということかと思います。
僕は以前ベーシストだったのですけれど、アメリカでの修行中、毎週の礼拝で演奏することがベースの稽古をする何よりのモチベーションになりましたし、礼拝の場は他のどんなステージや教室よりも多くのことを学んだ場でした。もちろん、デーブ=クラークという師匠にもたくさんのことを教わりましたけれど、僕のベースの上達に一番寄与してくれたのは、師匠でも自分の努力でもなく神様だったと思っています。自分の奏でる音は神様の与えてくれた音。そう思ったら自分の音をより大切にするようになりました。
神様のために何かの能力を捧げたいと思うなら、「自分が努力して得た私の能力を神様に捧げます」という態度ではなく、まずはダビデのようにその能力が神様から与えられたものだということを実感し、告白することが大切なのかと思います。その実感と告白によって、その能力は真に神様のために用いられるのではないかと思います。
こうして日々連載を続けられるのも僕自身の努力とかではなく、神様が日々「ちゃんとサボらずに書けよー!」と励ましてくださる上に「アイディア出ないの?だったらこんなのどうよ?」と聖書を通して教えてもくださる故です。しかも書いた後には「おーー!今日もちゃんと書けたじゃん!えらいっ!すごいっ!おつかれーーー!!」と褒めてくださる故です。ちなみにそんな時の僕の中での神様のイメージは、新日本プロレス道場の名コーチ、山本小鉄さんか獣神サンダーライガーさんです。
最後の最後でニッチなプロレスネタですみません。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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