主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 列王記第二の20章です。それではよろしくどうぞ。
◆列王記第二 20章5節
わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヒゼキヤという王様が、病気になり「君はもう死んじゃうよ」と神様から言われました。ヒゼキヤはそれをきいて悲しんで神様に祈りました。
ヒゼキヤは神様に従順な人でした。神様の声に従って国を守り、また発展させた人でした。この人もまた、一人の英雄と言える人です。しかし、英雄といえども、迫り来る自分の死に対しては何もできません。祈るしかありませんでした。
神様はその祈りに応えて言いました。「君の祈りは聞いた。君の涙も見た。わかった、君を癒すよ。君の寿命を15年伸ばす事にするよ」。そしてヒゼキヤはその通りに命が助かり、もう15年生きました。
これを読むとつい「寿命が15年伸びた!」「祈りが届いて命が助かった!」ということを重視してしまいがちです。もちろんそれだってとても大切な事です。神様にできないことはなく、人の生き死にさえも動かせるということですから。
でも、僕はそれよりも神様が「君の祈りを聞いていたよ。君の涙も見たよ」と言ってくださることの方に、命を長らえたこと、祈りが聞き届けられたことよりも、ずっと大きな救いを感じるんです。この世界に生きていて、僕たちには「君の涙を見ていたよ」なんて言ってくれる人が何人いるでしょう。しかも神様は一度の涙をみるだけではなく、人生で流したあらゆる涙を見てくれる方です。その上で「君の悲しみ、苦悩、怒り、みんな知っているよ」と言ってくれる方です。このことがあるからこそ、「寿命が15年伸びた」という「結果」にも意味があるんです。「祈ったら叶った」というご利益主義の自動販売機のような関係ではなく、「君の悲しみを知っている」という「過程」まで全部ひっくるめた大きな関係を神様は僕たちと築いてくださる方なんです。その関係があって初めて「結果」にも意味があるんです。
ちょっと極端な言い方をしますけれども、たとえ寿命が伸びずにそこで死んでしまったとしても、神様が「君の悲しみをみんな知っているよ」と言ってくれるなら、その人生はどんなに祝福されたものでしょう。15年の寿命が加えられたとしても、その祝福がないならその15年に何の意味があるでしょう。
誰にも見られずに泣いた夜も、うめいた時も、神様はちゃんと知ってくださっているんです。祈りの「結果」はもちろん大事ですし、神様は御心ならすべてを成し遂げてくださる方ですが、しかし祈りの本質は「結果」にはないんです。
それではまた来週。
主にありて。
MAROでした。
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