今回の哲学名言は、カントの主著の一つである『実践理性批判』から、道徳法則に関する有名な一節を取り上げてみることにしましょう。
わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、
ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。
それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。カント
この一節自体、倫理学の名言としてはこれを引いておけばまず間違いはないというくらいによく知られており、高校生の倫理の教科書などでもひんぱんに引用されているものです……が、率直に言って、現代を生きている私たちが、この一節を理解するにあたって小さからぬ困難を覚えることは否定できません。というのも、私たち現代人は、カントが生きていた、敬虔主義的な雰囲気が濃厚に漂う十八世紀ドイツの社会よりも、道徳的に見て少しばかり奔放な社会を生きていると言わざるをえないからです。
少しばかり、というのはきわめて控えめな言い方であって、実際には、彼らから見たらほとんど無法状態にも近い自由を謳歌してしまっている、と言うべきかもしれません。現代の大人たちは、確かに純愛ものの連続ドラマに涙を流すことも時にはありますが、基本的には、不倫と殺人を題材にしたフィクションの世界にどっぷりと浸かっています。若者たちは、連日連夜の合同コンパにひたすら明け暮れながら、それでも次のコンパは果たしていつだろうと、あくまでも貪欲に求め続けています。今日、道徳的に見て「安全」であるのはもはや、『とっとこハム太郎』に目を輝かせている子供たちくらいのものであると言えるのかもしれません。以上、話が少しだけ極端になってしまったような気もしますが、道徳法則の存在がもたらす「賛嘆と畏敬」という表現が私たちにとってはいくぶんか縁遠いものになってしまっていることについては、ほとんど異論のある人はいないものと思われます。
それでは、道徳法則などというものはおよそ私たちの一人一人とは縁のないものであるかと言えば、決してそんなことはありません。内なる道徳法則の存在が賛嘆と畏敬の念を引き起こすというカントの言葉には、私たちが生きているこの日常の風景とも、深いところで通底するものがあると言えるのではないか。
親しい相手と口論や言い争いをしてしまった後で、ああ、悪いことを言ってしまったかなと悔やむというのは、しばしば起こる経験です。本当はもっと仲良くできたはずなのに、なぜあんなことを言ってしまったのだろう。そうしたとき、私たちが自分でも後悔の念にかられながら、やっぱり、こちらから相手に謝ろうかなと思わずにいられないのは、内なる声が、そんな風にしたままではいけないと、私たちに静かに語るからです。道徳法則は、互いに傷つけ合うことなく生きるのが人間の本当の生き方であると、たとえ、すぐには無理であるとしても、隣人を自分自身のように愛することを学ぶことこそが生きてゆくことの意味なのであると、私たちに語ります。私たちの内側から、私たち自身の存在を超えるようにして示されるこの「内なる法」の存在を確かに感じとることから湧き出てくる感情を言い表す言葉としては、やはり「賛嘆と畏敬」という表現こそが最もふさわしいのではないでしょうか。
道徳法則への尊敬について語ったカントの実践哲学は、およそ人類がこれまでに到達しえた倫理思想の中でも、最も気高いものの一つであると言われています。『実践理性批判』の結論部の冒頭に置かれた上の言葉は、その思想を突き動かしているところの根本感情を、この上なく的確に言い表すものであると言うことができるでしょう。
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