「ゆるされて当たり前」と思っているイヤな奴【聖書からよもやま話8】

今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から、皆様の役に立つこととか立たないこととかを話してみようという【聖書からよもやま話】、
今日、選ばれたのは旧約聖書、アモス書9章です。アモス書は旧約聖書の中でも9章しかない短い書で「小預言書」と言われるものの一つです。それでは今日も行ってみましょー。

◆アモス書9章10節

わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている。

アモス書はイスラエルの国の敵を神様が滅ぼすところから始まりますが、その後で「でも、君たちも悪い子だからお仕置きだよ!」とイスラエルの民を叱る、というストーリーの書です(大雑把にもほどがありますが・・・)。

でも、そうやって叱られているにもかかわらず、なお「でも僕たちは神様に選ばれた民だから、神様の罰を僕たちが受けることはないよね」とタカをくくっている人たちがいたんです。そんな人たちに対して神様は「いやいや、君たちも容赦しないよ?」と告げます。

学校にたとえれば「僕は学級委員だから悪いことをしても先生に叱られることはない!」とか、「僕のお母さんはPTAの役員だから悪いことをしても僕が叱られることはない!」とか言っている子に似ています。鼻持ちならないですよね。腹が立ちますよね。当時のイスラエルにもそんなイヤな奴がいて、神様もそういう奴には「頭にくるなー、こいつら。君らでも関係なく私はお仕置きするからね」と思っていたということです。

しかし実はこのイヤな奴らというのは、もしかしたら僕たちクリスチャンのことなのかもしれません。確かに神様の恵みによってクリスチャンは罪をゆるされていますが、それで「僕は神様に罪をゆるされているんだから大丈夫」と思ってしまう心が、僕たちクリスチャンの中にないと言い切れるでしょうか。正直に白状しますと、僕は言い切れません。日々ちゃんと意識をしていないと、いや、意識していても、罪を犯してしまうのが人間です。それはクリスチャンでも変わりません。罪を犯しているのを自覚しつつ「でも自分はクリスチャンだから大丈夫」と思ってしまうなら、それはアモス書のここに描かれているイヤな奴と同じではないでしょうか。

もちろん、ゆるしと救いを信じることは大切です。それがクリスチャンの本質でもあります。それがなければクリスチャンとはいえません。しかし、「ゆるされて当たり前」と思って感謝を忘れ、傲慢に陥ってしまっては、罪に罪を重ね塗りするようなものです。

今日の箇所は読んでいて「ドキッ!」としました。でもそんな「ドキッ」も神様から与えられた大切なメッセージですから、胸に刻んで日々ゆるされていることを自覚し、感謝しつつ生きねばと思います。神のゆるしは当たり前ではないんです。

それではまた。
主にありて。MAROでした。

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