仙台キリスト教書店・仙台キリスト教連合共催の講演会「現代世界に対してキリスト者は聖書を根拠に平和を語ることができるか――二世紀の神学者ユスティノスのロゴス論が示唆する可能性を考える」が4月28日、日本基督教団東北教区センター・エマオ(宮城県仙台市)を会場に、オンラインとの併用で開催された。会場とオンラインを合わせて30人以上が参加した。
この講演会は、仙台キリスト教書店の存在意義を模索する中で企画されたもの。全国のキリスト教書店、そして「書店」一般の例にもれず、仙台キリスト教書店もまた、持続可能性に大きな課題を負っている。「書店不要論」もささやかれる中、仙台キリスト教連合は「顔を合わせ、出会いが起こる場」としての書店の意義を確かめ合い、その価値を掘り起こすために企画したという。
ユスティノスは起源165年にローマで殉教した神学者。プラトニズムを活用してキリスト教神学を構築した点で、アウグスティヌスなど西欧神学の源流に位置づけられる。講師の石田学氏(日本聖書協会理事長、日本ナザレン教団牧師)はまず、ウクライナとロシアの戦争、そしてそれを巡る諸正教の動静を概観しつつ、古代までさかのぼって「聖書を基礎に、果たして平和は語り得るのか」との問いを投げかけた。
旧約聖書には戦争による報復を肯定する文言が多くある。イエスの言葉とされるものにも「剣二振り」を携帯するようにと勧めるものがある(ルカによる福音書22章36節)。それでも私たちは聖書に基づき、平和を語る。それは、どのようにして成し得るのか。この困難な問いへのヒントを、石田氏はユスティノスの神学に見出す。
ユスティノスによると、旧約聖書を含むすべての知恵の中に、「種子としてのロゴス」がある。その「種子」は、キリストにおいて完成しており、キリストにおいてすべての知恵は理解し直されなければならない。ルカによる福音書に記された「キリストの言葉」であっても、そのように読まれるべきであり、「このユスティノスの議論を展開するなら、当然、その結論として私たちは今、聖書を用いて確かに、『平和』を選び取ることになる」と石田氏。
さらに、ユスティノスの神学がどのように生み出されたのかに注目。ユスティノスは、生涯、あらゆる哲学に学んだ。知恵を求め続けた彼は、キリストと出会い、福音を知り、そしていよいよ知恵の価値を知っていく。哲人と称されるマルクス・アウレリウスが皇帝となった時、彼は善政を強く期待した。しかし、その期待は破られ、その治世において彼は殉教する。それほどに自ら自身の「無知」を自覚し、学び続ける。その姿勢が、現代の「平和」を求める私たちの聖書理解を助けてくれている。
石田氏は、こうしたユスティノスの姿勢にこそ学ぶべきだとして、「知恵を求める歩みは、相矛盾するさまざまな議論を併せ飲む体験となる。それは苦しい。しかし、それなしには聖書も読めず、キリストの福音の価値も分からない。自分には不快と思われる知恵に出会うことが重要。その出会いの出来事は、ローマ帝国滅亡後の西欧中世において、教会の書庫で起こった。その中から、ルターの宗教改革も起こった。そして今、同じ出来事はどこで起こるのか。インターネットの中ではなく、むしろそれはやはり書店でこそ起こるのではないか」と結んだ。
講演後の質疑では、アジアの人々が今なお、1945年までの戦争の痛みを継承していること、子どもたちが本を喜び楽しむ環境を一つずつ整えること、「情報」「知識」「アクション」ではなく「情感」を伝え合う努力を積み重ねることの重要性などについて意見が交わされた。
(報告・川上直哉=日基教団石巻栄光教会牧師)