わいろはどうしてダメなのか【聖書からよもやま話302】

 

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、申命記の16章です。よろしくどうぞ。

 

申命記 16章19節

あなたはさばきを曲げてはならない。人を偏って見てはならない。賄賂を取ってはならない。賄賂は知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「わいろを贈ってはいけない。受け取ってもいけない」というのは、万国共通の倫理観かと思います。どこの国であっても、たとえわいろが横行している国であっても、堂々と「わいろはすばらしい!どんどんわいろをやりましょう!」なんて倫理を持っているところはありません。誰もが「わいろは良くない」と思っているから、わいろというのは常にコッソリと贈ったり受け取ったりされるものです。わいろはいつだってコッソリなんです。

しかし、「どうしてわいろがダメなのか」と問われると、もしかしたら意外とスパッと答えられない方も少なくないかもしれないと思います。公正さが失われるから?ズルだから?不公平だから?・・・では、公正さとはなんでしょう。ズルとはなんでしょう。不公平とはなんでしょう。つきつめてゆくと意外とこれは難しい問題です。そもそもわいろとはなんでしょう。年の瀬に、お世話になった人に贈るお歳暮と、わいろはどうちがうのでしょう。たとえば公職選挙法では、候補者は有権者にお歳暮を贈ることもできません。つまり候補者の有権者に対するお歳暮は一種のわいろとみなされるわけです。しかし、一般の人がお歳暮をいくら贈っても基本的にそれはわいろにはなりません。誰もが「わいろはダメ」と知っているけれど、「どうして?」とか「そもそもわいろとは?」となると、ん?ちょっと待てよ?となったりするわけです。
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聖書はそれに明確に答えています。「賄賂は知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる」と。つまり、知恵ある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめてしまう贈り物がわいろなのであり、それゆえに、わいろはダメなんです。

自分が誰かから贈り物を受け取る側だとしたら、「これを受け取ることで自分の判断力や信条が揺らいでしまうな」と思うなら、それは受け取るべき贈り物ではありませんし、贈る側としては、その品物を受け取らせることで相手の判断力や信条に影響を与えようとしているのならば、それは贈るべき贈り物ではありません。

人の判断力や信条に影響を与えてしまうような贈り物、これがわいろなのであり、これが禁じられるべきものです。もう少しわかりやすく言えば、贈り物によって誰かをコントロールしようとするとき、その贈り物はわいろです。贈り物によって自分が少しでもコントロールされてしまうなら、それもわいろです。

さらに言えば、相手の能力を下げたいのなら、わいろをたくさん贈ればいいんです。だって「賄賂は知恵ある者を盲目にする」のですから。歴史をみれば、最初は賢い政治家や英雄が、晩年はおかしなことばかりするようになるなんてことはザラにあります。それはもしかしたら、たくさんもらったわいろのせいで、どんどん知恵がなくなっていったのかもしれません。わいろは受け取る人の知恵と人生を破壊するものなんです。おそろしや。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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