人間は「美の極み」には至れない。【聖書からよもやま話208】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   エゼキエル書の27章です。それではよろしくどうぞ。

◆エゼキエル書 27章3節

ツロよ、おまえは、「私は美の極みだ」と言った。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ツロというのは世界史の教科書ではティルスと記されていたりもする町の名前で、海に面した交易都市として大いに栄えました。この町がどれほど立派で美しかったかは、この章のこれ以降の部分にこれでもかというほど描写されています。この町はとにかく立派で美しく、そして自分たちでも「私たちの町は美の極みだ」と誇っていたようです。

ところで、世界で最も美しいものってなんでしょう。そう問われたら「これだ!」と答えるのは意外と難しいものです。そもそも「美しい」ってどういうことでしょう。国語辞典によればそれは「色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま。」とありますが、「調和ってどういうこと?」「快いって?」と、なかなか「これだ!」と決まる説明はできません。しかしそれでもツロの人たちは「私たちは美しい!」と言いました。

人間は、美しいものをつくろうとしますし、自らも美しくあろうとするものです。美を求める本能のようなものがあるのでしょう。それが何かということさえちゃんと掴み切れてはいないけれど、それでも求め続けてしまうもの、それが美です。
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ツロの人たちは自分たちを「美の極み」と言いました。つまり「私たちは誰もが求めるこの美というものを極めたのだ、完全に手にしたのだ」と言ったわけです。神様はこれを愚かなことだと指摘します。人の手でつくられた美など、神の前では一夜にして消えてなくなるのだと予言し、そしてそれは実現してしまいました。

人は美をつくろうとするけれども、決して完全な美をつくることはできません。それに近づくことができたとしても、それは時間が立てば必ず衰えますし、時には一瞬で消えてしまったりもします。

人間が唯一、美に至る道があるとすれば、それは人間が自分自身の手で「美しいものをつくる」とか「美しくなる」という道ではなく、神様によって「美しいものを与えられる」とか「美しくされる」道です。人間は自分の努力で美しくなるのではなく、神様の恵みによって美しくされるんです。そして神様による美は、人間には到達できない本当の美でしょうし、それは衰えたり滅びたりすることもありません。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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