世界一優しい人であっても赦せない相手とは。【聖書からよもやま話211】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、   エレミヤ書の5章です。それではよろしくどうぞ。

◆エレミヤ書 5章7節

これでは、どうして、
あなたを赦すことができるだろうか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

聖書は「赦すことが大切だよ」と何度も何度も教えてくれます。が、どんなに優しい人がどんなに「赦そう」としても、どうしても赦せない相手がいます。それは自分の罪を認めない人です。それは神様も同じです。罪を認めない人を赦すことはできないんです。

いくら「赦します」と言ったところで、相手が「はぁ?私には赦されるべき罪なんてありませんけど?」と答えるなら、「赦す側」と「赦される側」の関係が成立しません。そうなると「赦し」は空振りになってしまいます。「ごめんなさい」と罪を認めて謝る人を赦すことはできても、罪を認めない人を赦すことはできないんです。たとえ第三者が間に入って「どうか彼を赦してあげてほしい」とお願いしても、当の本人が罪を認めないのなら赦すことはできません。

「怪我を治してあげるよ」と言ったところで、相手が「はぁ?私はなんの怪我もしてませんけど?」と、患部を見せてくれないのなら、どんな名医でも治療することができないのと同じです。家族や友人などの第三者が「どうか彼の怪我を治してあげてください」とお願いしても、当の本人に治療を受ける意思がなければ治療できないのと同じです。

神様は、罪を認めて謝る人のことは赦してくださいますが、「私には罪はない」と主張する人のこと、あるいはそもそも自分の罪を自覚していない人のことを赦すことはしません。まさに「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか」ということなんです。赦したくても赦しようがないんです。
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しかし神様は人間をとことんまで愛している方ですから、人間を赦したくて赦したくて仕方ありません。「ごめんなさいって言ってくれれば赦すのに!だから気づいて!」と、聖書や教会を通して僕たちが罪に気づくように働きかけ続けてくださっています。そして僕たちが一つ一つの罪に気づいて「あ!これは罪でした!ごめんなさい!」と言う度に、「よく気づいたね、いいよ」と赦してくれます。でも、「私は赦されなくてはいけない罪なんて犯してません!」とか「あなたに赦される筋合いなんてありません!」という人に対しては、もうどうしようもないんです。そして最終的には、いつかその罪に対して罰を与えなくてはいけません。

「今のうちに正直に名乗り出たら先生は怒らないから名乗り出なさーい!」と先生に言われたら、名乗り出た方が得策です。その時に名乗り出ずに後から悪事が発覚したら罰を受けなくてはいけなくなります。先生としても後から発覚したら罰を与えないわけにはいかないんです。赦される機会を与えられているのにそれを無視したら、いずれより大きな罰を受けることになります。そして、神様にとってのその「今のうち」は、「生きている間に」です。その間に「すみませんでした」と素直に告白すれば神様は赦してくれます。しかし名乗り出ないなら「これでは、どうしてあなたを赦すことができようか」な状態なので困ってしまいますし、いずれ来る審判の時に罪が発覚すれば、その時にはもう裁きを与えざるをえないということになってしまうんです。

「信じる人しか救わない神様は度量が狭い」なんておっしゃる方もいますけど、そんな方だって「謝る人しか赦さないなんて度量が狭い」なんて思わないですよね。人間同士だって「ごめんなさい」の一言は関係を構築する上で非常に大切です。これは多くの方が実感し実行していることかと思います。そんな人でもなかなか神様に対しての「ごめんなさい」は言えなかったりします。でも、神様との関係を構築する上でも「ごめんなさい」の一言は、人間同士の場合以上に大切なんです。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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