イエス様の救いは借金地獄からの無利息融資【聖書からよもやま話141】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日から旧暦でも新年を迎え、いよいよ本格的に寅年が始まるのだそうです。
ちなみに聖書には獅子は出てきますが虎はでてきません。
ともあれ、今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  詩篇の18篇です。それではよろしくどうぞ。

◆詩篇 18篇25〜26節

あなたは恵み深い者には恵み深く
全き者には全き方。
清い者には清く
曲がった者にはねじ曲げる方。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ダビデが敵から救われた時に、神様に感謝した詩の中の一部ですが、これが僕の心に今日は引っかかりました。この詩には「主はわが巌 わが砦 わが救い主」とか、他にもっと有名なフレーズもあるのですけれども。

神は恵み深い者には恵み深く、曲がった者にはねじ曲げる方。ここに示されている神様はまるで僕たちを映す鏡のようです。僕たちには「神様、どうしてこんなことをするのですか!?」と神様に問うこともありますけど、この聖句によるならば「神様が愛を示してくれないのは、君が神様を愛していないからだよ」とか、「神様が不条理なのは、君が不条理だからだ」とかいうことになります。

重たいですよね。神様の完全な愛を受け取るためには、まず自分が完全な者にならなければならないのだとしたら。なんだか、たとえばお金に困っている時に、「100万円持ってきたら、100万円あげるよ」と言われているような気持ちになります。いや、それができるならお金の無心なんてしませんから。僕がもともと完全なのだったら、神様に祈ったりしませんから。僕は恵み深くも清くもなく、曲がった者ですから。

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Photo by Elisa Ph. on Unsplash

でも、ここにイエス様がわざわざ地上に降りて、十字架で犠牲になってくださった意味があると思うんです。僕たちは清くないので、清い神様の愛を受けられません。だからこそ、イエス様が僕たちのその「清くなさ」、すなわち罪を代わりに背負ってくださって、僕たちに神様の愛を受けさせてくれたわけです。借金を肩代わりしてくれたようなものです。クリスチャンは、罪によるあらゆる負債をイエス様に借り換えたようなものです。高利の借金を、無利息融資に借り換えたようなものです。いやもはや融資でさえなく「代わりに君の借金はみんな返しておいたからもう逃げ回らなくて大丈夫!」と言ってくれる大富豪のようなものです。

だからこそ、本当はこの詩に記されているように、清くなく、曲がった僕は神様の愛を受けられないはずなのに、清くなく、曲がっている僕はいま、神様の全き愛を受けることができているんです。イエス様がしてくださったことというのは、そういうことです。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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