作品は誰かに見てもらいたいもの。神様も同じです。【聖書からよもやま話125】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  詩篇の48篇です。それではよろしくどうぞ。


◆詩篇 48篇10節

神よ あなたの御名と同じく
あなたの誉れは地の果てまでに及んでいます。
あなたの右の手は義に満ちています。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


聖書には神様の「右の手」という語が40回以上も出てきます。「左の手」は8回です。つまり神様は右利きなんです。・・・って、たぶんそういうことではないと思います。聖書は神様の利き手が右か左かという問題ではなく、「利き腕をつかう」ということにフォーカスしているのだと思います。神様は利き腕ではない方の手で、それこそ文字通り手抜きをして何かをするのではなく、利き腕を使って、つまり本気で物事をなしてくださる方だということです。そして「あなたの右の手は義に満ちています」というのは、「あなたがそのようになしてくださったことは、すべてが義でしかありません」ということです。

そしてその義は誉れとなって地の果てにまで及んでいます。「神の誉れなんて知らねーよ!」という方もいるかもしれませんが、そんな人でも神様のつくったものに囲まれて生きています。そしてそれを褒め称えます。海や山、月や星や太陽、それらを多くの人が褒め称えます。それは神様の誉れなんです。だって、たとえばゴッホの絵が褒め称えられるということは、ゴッホさん自身に誉れが与えられるということです。世界中どこに行っても、程度の差こそあれ自分たちに与えられた自然を褒め称えない民族はいません。神様の作品は世界中に満たされていて、みんながそれを褒め称えています。ですから神様の誉れは世界中に及んでいるんです。

ただ、残念な事に自然を褒め称えることまでで終わってしまって、それをつくった神様を忘れている人がとても多くなっているのが現在です。それは「ひまわり」の絵をみて素晴らしいと思っても、それを誰が描いたかということに興味を示さないようなことです。それではゴッホさんがかわいそうです。

子どもは何かを作ったり描いたりしたら「みてみて!」と言います。自分がつくったものを誰かに見てもらいたいというのは人間の本質的な要求なんです。それは神様も同じです。だからこそ、この詩人は「神様、あなたの作品は世界中の人がみていますよ!」と褒め称えているんです。


それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。


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