自分で「私は聖なる者だ」なんて言う人にロクな人はいません(断言!)【聖書からよもやま話30】

皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は一昨日に引き続き旧約聖書、イザヤ書の65章です。それではよろしくどうぞ。


◆イザヤ書 65章5節

『そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたにはあまりにも聖なるものだ』と言う。これらは、わたしの怒りの煙、終日、燃え続ける火である。


イザヤ書は「聖書の中の聖書」と呼ばれたりするほど、聖書のエッセンスが詰まった書ですが、この65章ではイスラエルの民に対する神様の怒りが記されています。この5節は、「自分のことを『聖なる者』として偉そうにしている奴は私は嫌いだ!!という神様の宣言です。この直前の節を読むと、この怒りは特に偶像礼拝をしながら「私は聖なる者である」といばる人についての怒りだということがわかるのですが、現代で「偶像礼拝」と言われても、特にノンクリスチャンの方にはわかりにくいですよね。ですから思い切ってわかりやすく砕いてしまえば、「自分は聖なる者だ」なんて威張ってみても、実際にやってることや言ってることはちっとも聖なるものではないでしょ人間なんて!ということかと思います。

もっと砕いてしまえば「私は聖なる者である」なんて言う人に限って、まず必ずロクでもない人だということです。教会で牧師や神父が「私は聖なる者です」なんて言っているなら、その教会からは逃げた方がいいです。教会に限らず、お寺でも神社でもなんとかセミナーとかでも、みんな同じだと思います。もうこの際ですから断言してしまいますけど、本当にロクな人はいません、自分で「私は聖なる者だ」なんて言う人に。

でも、よく考えてみれば自分自身の中にもどこかにこんな心はあるのだと思います。クリスチャンであれば、毎週教会に通い、毎日聖書を読んでお祈りをして・・・とやっていると、心のどこかで「自分は聖なる生活をしているから、他の人とは違うのだ」なんていう気持ちが生まれてきたりもします。毎週教会に通ったって、毎日聖書を読んだって、お祈りしたって、自分がちっとも「聖なる者」なんかになれないことはクリスチャンなら多くの方が自分でわかっているでしょうに、しかしそれでもそんな気持ちが生まれてきたりしてしまうんです。
礼拝や祈りを利用してまで、悪魔は心の隙を突いてくるんですね。恐ろしいものです。

それではまた。
主にありて。MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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