死の陰の谷を行くときも――中国カトリック教会が歩んだ道(2) 中津俊樹 【東アジアのリアル】

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1949年10月1日、中国共産党の指導者・毛沢東は北京の天安門から全中国と世界へ向けて、新たな国家である中華人民共和国の成立を宣言した。アヘン戦争(1840年)以来、絶えざる外圧と侵略、そして打ち続く内戦による苦難の100年を経験してきた中国そして中国人にとって、毛沢東による「人民解放戦争の勝利」の宣言はまさに、傷つけられた民族的自尊心の回復と共に、新たな時代の幕開けを象徴するものであったといえる。

この歴史的転換点と新たな時代の到来への喜びは、キリストへの信仰を持つ中国人も共有するものであった。排外的ナショナリズムと異なり、純粋に自らの生まれ育った国を愛する思いには本来、何らの不自然さも存在し得なかったはずである。だが、その後の歴史はキリストを信じる中国人に「信仰」、すなわち救い主たるキリストへの愛と、新たな国家そして政権を主導する共産党への忠誠としての「愛国」という、苦渋に満ちた選択を迫るに等しいものとなった。

1949年9月30日に採択された新国家の「臨時憲法」としての「中国人民政治協商会議共同綱領」では、「宗教の自由」が規定された。一方で、新たな国家が事実上、無神論的価値観を掲げる共産党によって指導される点からいえば、「宗教の自由」が完全な形で保障される可能性は皆無であった。いわば、将来的な宗教への圧迫の伏線が新国家成立への歓喜の中で密かに張られたに等しい状況が、この段階ですでに出現していたといえる。

広州・石室聖心堂教会の祭壇(2012年、筆者撮影)

一方、教会による共産主義への対応に関していえば、カトリック教会は教皇ピオ11世(教皇在位1922~1939年)の回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」(1937年)において、「無神論的共産主義」への批判を明確に打ち出していた。その後、第二次世界大戦の終結(1945年)と米ソ冷戦構造の拡大の中で共産主義勢力の伸長が顕著なものとなると、ローマ教皇庁「検邪聖省」は中国共産党の勝利に先立つ1949年7月、中国を含む全世界のカトリック教会へ向けて「共産主義に関する聖省令」を発し、カトリック信徒による共産主義や共産党への同調を「破門」の対象とする方針を明示した。

また、共産主義者とのいかなる関わりも――関連団体への加入や出版物の購読も含め――すべて禁止の対象とされた。この措置は、キリスト教の信仰を無神論的共産主義の影響から守る上で必要なものであった。加えて、それらはあくまでも信仰生活に限定されており、世俗の政治権力への信徒の敵対的行動を促すものではなかったのである。

しかし、教皇庁の一連の方針はその本来の意図とは何ら関係なく、中国人のカトリック信徒にとって新たな試練となった。共産党が社会の全領域を支配する新国家において、純粋に信仰心に基づいて教皇庁のこの決定に忠実であろうとした場合、それは事実上、社会における生存条件を失うことを意味した。同様に、中国人としての素朴な感情に基づく「愛国心」も、その対象がまさに無神論的価値観を標榜する国家であるという現実を前にした時、イエスと教会への信仰との間での矛盾を引き起こさざるを得なかった。

一方、新政権にとってこれは「愛国」とは相いれない「反革命」的価値観であり、カトリック教会の真意の如何を問わず到底容認できるものではなかった。この時点で、中国のカトリック教会と新政権の関係はほぼ、決まったといってよいであろう。

ここに、中国にとっての新たな時代の幕開けは、今日まで続く中国のカトリック教会の苦難の道程のはじまりとなった。そして、彼らは多くの困難の中にあってもキリストの栄光を仰ぎ見ながら、それぞれの信仰を胸に「死の陰の谷」を歩み続けているのである。

 

中津俊樹
 なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。

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