主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の63篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 58篇1節
力ある者たちよ おまえたちは本当に義を語り
人の子らを公正にさばくことができるのか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
世では人が人を評価します。たとえば上司は部下を評価し、教師は生徒を評価し、世論は政治家を評価します。その部下や生徒や政治家もまた、上司や教師や世論を評価したりします。この社会は人間同士、評価のしあい、評価合戦でなりたっているとさえ言えます。
人が人を評価する時、その基準は公正でなくてはなりません。上司や教師がえこひいきで部下や生徒を評価したらいけません。総理大臣が各大臣を任命するときの評価も公正でなければいけません。まして、裁判官が被告人を評価するならなおさらです。
しかし、聖書は問います。「君たちは本当に公正であることができるのか?」と。
多くの人が「私の意見は公正だ」と主張しますが、人が人である限り、本当にとことんまで公正であることは不可能であるように思います。完全に自分の感情や、立場や、しがらみから解放されて公正であるということは、むしろもしかしたら「人間性の欠損」ということにさえなるかもしれません。それはいわゆるサイコパスに近いかもしれません。
ですから人間はまず「公正な自分」から思考や評価をスタートさせるのではなく、「公正ではない自分」を土台として思考や評価をしなければならないのではないかと思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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