主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。出張でしばらくお休みをいただいておりました。すみません。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 ヨブ記の4章です。それではよろしくどうぞ。
◆ヨブ記 4章7節
だれか、潔白なのに滅びた者があるか。
どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヨブは正しい人であったのに、神様からひどい目にあわされてしまいました。そんなヨブのところに友人が3人やってきて彼を慰めようとしますが、次第に彼らはヨブにお説教を始めてしまいます。そんなお説教の一つが今日の箇所です。
ヨブの友人エリファズは「ヨブ、よくよく思い返してみなよ。君は何か悪いことをしたんじゃないか。いや、したはずなんだよ。だって潔白な人や正直な人がひどい目にあうわけなんてないんだから」と言いました。
エリファズのこの「正しい人は報われる」「正直な人は報われる」という主張は世の中でもよく聞くもので、ある意味で人間にとって「正しくあってほしい」ものなのだと思います。しかし実際に正しいでしょうか。世の中では正しい人は必ずしも報われませんし、正直な人が損をすることも多々あります。では、正しい人、正直な人を報わない神様はひどい方なのでしょうか。ヨブをひどい目にあわせた神様は理不尽な方なのでしょうか。
そんなことはないでしょう。神様は確かに正しい人を滅ぼさず、真っ直ぐな人を絶ち切りはしません。ではどうしてこんなことが起こるのでしょう。これはちょっとコペルニクス的転換が必要ですが、実は非常にシンプルなことで「正しい人なのに報われない」なのではなく「正しくないから報われない」だけのことです。
エリファズは「これまでに正しい人や正直な人がひどい目にあったことがあるか!?」と問うていますが、そもそもこの質問自体に間違いがあります。だってこれまでに正しい人や正直な人なんて誰もいなかったのですから。アダムとイブが罪を犯して以来、人間として生まれて完全に正しい人なんて誰もいないんです。ですから「正しいのに、ひどい目にあった」という一見矛盾や理不尽にも思えるこの言説は、そもそもこの「正しいのに」という前提が間違っているということになります。つい人は「ひどい目にあった」という結果に着目して矛盾や理不尽を感じてしまいますが、そうではないんです。
エリファズの言っていることは一見正しいように見えて、実は「食事をしたことのない者がお腹を壊しただろうか。眠ったことのない者が悪夢を見ることがあるだろうか」と言っているようなものです。人間として生きている上で食事をしたことのない人も眠ったことのない人もまずいません。それと同じくらい「正しい者」もまずいないんです。
人間はついつい自分を正しいと思ってしまいますし、どこかでそれをあたりまえだと思っています。しかし神様はその根底から「違うよ」と言います。その「違うよ」にこそ、とんでもない愛があります。だって僕たちは「正しいから愛される」のではなく、「正しくないのに愛されている」のですから。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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