主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにおこしいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、マルコの福音書の11章です。それではよろしくどうぞ。
◆マルコの福音書 11章24節
あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
すごく大胆な教えです。だって、すでに得たと信じて祈れば、何でもその通りになると言っているんですから。たとえば「年末ジャンボで6億円当たりますように」と祈っても、その通りになるのだということです。
本当に!?
・・・って思いますよね?これです。この思いが、この祈りの最大の障壁です。本当に!?なんて思ってはいけないんです。完全に、まったく、1mmも思ってはいけないんです。「当たるといいな」とか「当たるはず」とかではダメなんです。「もう確実に当たるのだ」と、一分の隙もなく完全に信じなければいけないんです。そこまで完全に神様の力に信頼したなら、それは何でもそのとおりになると、イエス様は言っているんです。それこそ、山に「動け」と命じたら動くとさえ言っているんです。ですから、これさえできれば確実に年末ジャンボで6億円が当たるんです。
そうか!じゃぁ疑わずに信じるぞ!
・・・と思うのですが、これってものすごく難しいことです。心のどこかで、どうしても必ず「本当に?」と疑う心が出てきてしまいます。強く信じようとすればするほど、出てきてしまいます。何かを完全に信じ切ることって、難しいことなんです。
でも、それは望みが大きすぎるからかもしれません。たとえば目の前にコップに注がれた水があって、それを「飲みたい」と望むとき、その実現を疑う人はいませんよね。コップを手に取って口に運ぶだけで、それは実現するのですから。そのとき、人は「水を飲みたい」という望みが叶うことを、完全に確信しているんです。
小さな子どもが「お腹がすいた!」と親に訴えるとき、ごく近い将来に食べ物が与えられていることを完全に信じています。少なくともある程度ちゃんと機能している家庭ではそうです。ですからイエス様は「子どものようにならなければいけない」と僕たちに教えてもいます。子どもが親に食べ物を願うように純粋に疑いなく、僕たちも神様を信頼しなくてはいけないんです。
じゃぁ、純粋な子どもに年末ジャンボを買わせればあたるんじゃないか。いやいやダメでしょう。望む本人がそれを確信していなきゃダメです。
人って、確信していることはなかなか祈らないんです。目の前の水を飲むときに、「このコップの水を飲めますように」と祈る人はいません。疑うから祈るんです。まず、その習慣を変えなくてはいけないのかもしれません。
これから買い物に行ってきます。「牛肉に半額シールが貼られていますように」と願いつつ、祈りつつ。とはいえ、やっぱり難しい。「信じたってやっぱり貼られていないかもしれないし、それならそれで仕方ない」と、どこか疑ってしまいますものね。「貼ってなかったら豚肉を買おう」とか、二の策、三の策を考えたりしてしまいますものね。でもそんな心の疑いを「えいや!」と打ち払って、半額の牛肉をゲットしたいと思います。そもそも、そこに「えいや!」が必要な時点で、やっぱりすでに疑ってしまっているのかもしれません。今日の買い物はなんとも悩み深いものになりそうです。
ともあれ、どうしても叶えたい願いのある方はこの「確信する」という方法、ぜひお試しください。あ、ダメでした。「試す」というのはすでに失敗の可能性を想定している言葉ですから、試す時点で疑いが生じています。やっぱり難しいですね!
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
【今日の小ネタ】
日本に生息するキノコの90%は、食べられるか食べられないかよく分かっていないのだそうです。