皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エズラ記の2章です。それではよろしくどうぞ。
◆エズラ記 2章2節
彼らは、ゼルバベル、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと一緒に帰って来た。イスラエルの民の人数は次の通りである。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
イスラエルの民は「バビロン捕囚」と呼ばれる大艱難を経験しました。しかし、ペルシアのキュロス王がバビロニアを滅ぼしたので、この「バビロン捕囚」の時代は終わりを迎えました。バビロンに強制移住させられていたイスラエルの民たちは、自分たちの国に帰ることを許されましたが、そのままバビロンに残ることを選んだ人たちもいました。今日の箇所には、その時にバビロンに残らず、故郷イスラエルに帰ってイスラエルの復興を志した人たちの数が記されています。
パルオシュ族、二千百七十二人。
シェファテヤ族、三百七十二人。
アラフ族、七百七十五人。・・・・・・
と、この章では延々と部族名とその人数が羅列されています。なんと退屈な!この部族名と人数を全部覚えている人はまずいないでしょうし、覚える必要もないと思います。ええ、なんなら斜め読みとか読み飛ばしでもいいんじゃないかと思えるほどです。
しかしですね。このような退屈な数字の羅列にも大切な意味があります。それは、しっかりと一人一人が数えられているということです。「パルオシュ族、約2100人」とか「シェファテヤ族、ざっと370人くらい」とか「アラフ族、だいたい770人台の半ばらへん」とかいう、いい加減な数え方ではなく、きっちりもれなく精密に数えられているということです。(実はこの数字の正確性については諸説あるのですけれど、少なくとも精密に「数えようとした」ことは間違いないと思います)
これは、神様はご自身が救う民を「みんな」とか「大勢」とか、大雑把に取り扱うことはなく、一人ひとり丁寧に取り扱ってくださるのだということを示しています。僕たちは一人ひとりが神様に大切にされているんです。なんと大きく、そしてきめ細やかな愛!!
しかし一方で、それは愛されている僕たちの側も、しっかりと一人ひとりがその愛に応答しなくてはいけないということです。「みんなでやればいいや」とか「みんながやってるからいいや」とかではいけません。愛される僕たちは一人ひとりが丁寧できめ細かい「わたし」として、神様に向かい合わなくてはいけないということです。一のくらいまで細かく数えられているということは、「大勢いるから自分だけズルしてもバレないだろう」なんてことは通用しません。そう考えると、神様の大きくきめ細やかな愛は、同時に厳しさも備えているということがわかります。
何もかもが数字で表現されうる現代社会で、人間も数値となり、顔のない「わたしたち」が世間のメインラインになりましたが、神様はあくまで顔のない「あなたたち」ではなく、顔のある「あなた」を愛し、救っているんです。救おうとしているんです。ですから僕たちは神様にきっちりと顔を向けて、「わたしです。わたしはあなたを愛しています」と祈り、愛を実践する必要があるんです。
神様が愛しているのは「みんな」ではなく「あなた」です。
神様が愛しているのは「みんな」ではなく「あなた」です。
神様が愛しているのは「みんな」ではなく「あなた」です。
大事なことなので3回言ってみました。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。