『マッカーサー回顧録』の昭和天皇とダビデ王【聖書からよもやま話54】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、歴代誌第一の21章です。それではよろしくどうぞ。


◆歴代誌第一 21章17節

ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。あなたの民を疫病に渡さないでください。」

ダビデ王は「人口調査をしてしまう」という罪を犯しました。「人口調査の何が悪いの?」と思う方も多いかと思います。人口調査ならモーセだってしましたしね。しかしモーセが神様の命令によって人口調査をした一方で、ダビデは「自分の力を確かめるため」に人口調査をしたんです。同じ行為でも動機によって神様の判断は違うんです。神様に「戦え。私がついてるから大丈夫!」と言われたのに、ダビデは「ちょっと待ってください。私の現状の戦力を確認してから決めます」と答えたわけです。つまり神様の「大丈夫」というメッセージを信用しなかったということで、この態度が罪とされたんです。

この罪への罰として、イスラエルの民に疫病が襲いかかりました。罪を犯してしまったダビデでしたが、この罰への態度は立派でした。「悪いのは私一人ですから、民にまで罰を下すのはやめてください。その罪への罰は私がいかようにも受けますから」とダビデは神様に訴えました。

このエピソードから、僕は昭和天皇との面会について記された『マッカーサー回顧録』を思い起こしました。それによれば、敗戦直後に連合軍のマッカーサー元帥に会いにいった陛下は「自分はどんな罰でも受けるから、どうか国民が生活に困らないように援助をお願いしたい」との旨を伝えたのだそうです。

僕はクリスチャンですからもちろん、天皇を「現人神」とは思いませんし、神格化することも否定します。あくまで一人の人間であると思っていますから崇拝することもありません。しかし少なくともこの回顧録に記されたこの場面での、一人の人間として、そしてまた一人のリーダーとしてのその態度には敬意を覚えます。

陛下にもさまざまな思いはあったと思います。あの戦争をすべて軍部や政府の責任にして自分は罪から逃れることもできたかもしれません。ダビデ王にも様々な言い分はあったと思います。部下からの疑問や突き上げもあったかもしれません。しかしどちらも、「すべて最高責任者である私の責任です」と自分の誤りとして「罪」を受け入れ、それについての「罰」を国民が受ける時、あるいは受けようとしている時に、自身の安否を二の次にして国民を守ろうとしたその態度は「リーダー」にふさわしいものだと思います。

あくまでこの回顧録は個人的な回顧録であって公式な記録ではありませんから、どこまでの信憑性が担保されているかはわかりませんが、本当にこの回顧録の通りなのだとしたら、そう思います。

天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。(ダグラス・マッカーサー『マッカーサー回顧録』)

陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』 (藤田尚徳『侍従長の回想』)

マッカーサー元帥は熱心なクリスチャンでしたから、もしかしたら陛下の姿勢に、このダビデ王の姿勢が重なったかもしれません。少なくとも僕には、今日この聖句を読んだ時、この回顧録が重なりました。

リーダーに求められている資質って、ここに真髄があるのかと思います。誤らないことよりも(もちろん誤らないのが何よりですが)、誤ってしまった時に、自身の責任を認めてメンバーを守れるか。人のせいにせずに「私が責任を負います」と言えるかどうか。ダビデにはたくさんの過ちもありましたが、いざという時のこういう態度が「名君」と呼ばれる理由の一つなのだと思います。日本に限らず世界中の「リーダー」たちが責任転嫁合戦をしているこの時代に、学ばされます。

それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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