皆様いかがお過ごしでしょうか。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は一昨日に引き続き旧約聖書、ヨブ記の31章です。それではよろしくどうぞ。
◆ヨブ記 31章15節
私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか。同じ方が、私たちを母の胎内に形造られたのではないか。
ヨブはこの31章で、いくつもの罪を具体的にあげ、そのどれも自分は犯していないことを宣言します。つまりいかなる罪に対しても自分は潔白だと主張したんです。その中で「私は身分の低い人や召使いに対しても冷たくあしらったことはない」と言い、表題の言葉をそえました。要約すれば「人はみんな神様に造られた存在なのだから、神様の前には身分の高低は関係ないし、故に自分もあらゆる人を身分関係なしに扱ったのだ」ということになるでしょうか。
この言葉は身分の高低だけでなく、敵と味方や、親しい人と親しくない人など、様々なケースに汎用できるように思います。人にとって、自分の味方を愛することは簡単です。しかし自分の敵を愛することはとても難しいものです。自分を愛してくれる家族を愛することも簡単です。しかし自分を愛してくれない他人を愛することは難しいものです。自分にメリットをもたらしてくれる身分の人を愛することも簡単です。しかしメリットを与えてくれない身分の人を愛するのは難しいものです。
しかし、自分が愛することのできない人も、神様はそれぞれ御心と計画もって創造したのですし、何より愛しているんです。もし、私たちが神様を愛しているというのなら、神様が愛しているものを愛すべきではないでしょうか。例えば夫婦間で片方が愛しているものを「私はそれは嫌いだ」なんて言ったら夫婦喧嘩になるのではないでしょうか。無理にそれを好きにならないまでも、相手がそれを愛していることは認め合わなくては、夫婦に限らず友人関係でもなんでも、うまくいかなくなります。「夫婦関係のコツ」みたいなものを読むと、「相手の趣味を否定しないこと」ってよく書いてありますもんね。同じように、神様が愛しているものに対して「神様、あの人を酷い目にあわせてください」なんて祈るのは、何かを愛している人に対して「それを捨てろ、嫌いになれ」と迫るようなものです。自分の子を愛している親に対して「お前の子はダメだ!憎むべきだ!」と言うようなものです。
・・・なんて言いつつ。この章でヨブが具体的に列挙する罪の数々を読みますと、そのどれもに「ぎくっ!」とさせられます。どれも自分に心当たりがあるんです。
今日のこの箇所に限らず、聖書が罪を列記するのを読む時、一番よくない読み方は「あー、いるいるこういう人、いやだねー、こういう人にはなりたくないねー」と、完全に他人のこととして読むことです。次に良くないのは少し意外かもしれませんが、「あー、これをしてはいけないのか。頑張ってこういう罪を避けて清く正しく生きなければ!」と思ってしまうことです。なぜなら人間は自分の力で罪から逃れることはできないので、自分で頑張って罪を避けるということは神様の力を無視することと同じだからです。ですから罪の列挙を読むときは、その罪の一つ一つを「自分の姿」として認め、素直に神様の前にありのままをさらけだし、「自分はこんなに罪深い者ですから助けてください」と神様に頼るのが良いのかと思います。罪の列挙は、自分自身を映す鏡なんです。
神様は、人間はいずれあらゆる罪から解放されると約束してくださっています。ですから今は罪深い自分でも、いずれ必ず神様の力によって清いものと変えられるんです。いずれ、敵のことも、自分を愛してくれない人のことも、愛せるようになるんです。そう考えると、その日が待ち遠しくもなってきます。
自分を変えようとするのではなく、変わりゆく自分を観察して楽しむくらいの姿勢の方が無駄な力が入らずに生きられるかもしれませんね。そうしたら自ずと、自分の敵をも愛せるようになっていくのかもしれません。
それではまた。
主にありて。MAROでした。
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